大田原幼児園と季節託児所

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昭和初期の経済不況の影響により、もらい子・人買い・幼児の虐待等が増加し、貧困からくる児童幼児の育成環境は極めて悪く、幼児保護事業も急を告げていたのである。本県に於ては、
  下野三楽園 大正元年十一月創立
  宇都宮託児所 大正十年十月創立
を初めとして、昭和七年四月現在で、県下に九か所の育児事業としての施設と、農繁期等における季節託児所が各地に設置された。
 本市域においても、県からの勧誘をうけ、昭和六年十二月十五日、「大田原幼児園」が設置されたのである。(大田原・第二九、「栃木県社会事業史」)

大田原幼児園(二階は授産所)

 なお、当園の「日誌」(大田原市立第一保育所所蔵)によれば、開園当日の状況が次のように記されている。
 
 昭和七年一月八日(金) 雨
 当幼児園ハ元幼稚園ノ関係ニヨリ県ノ勧誘指導ニヨリ、各寺院ト方面委員ノ協力ヲ以テ町費ノ補助ヲ得 一時元家政女学校跡ヲ借リ受ケ設立 諸般ノ設置略整エ本日ヲ以テ左ノ如ク開園セリ

 以上のように最初は家政女学校跡を借りて開園したのであるが、その後、同年七月十六日大田原小学校裏(現 那須中央農業共済組合)の隣接地に二階建ての園舎を新築して移転した。園児数五七名。
 同二十四年六月、県の認可を受け、大田原保育所として発足。定員一四〇名。
 同三十一年九月、第二保育所の新設により、大田原第一保育所と改称し、園児一〇四名となる。
 同四十一年四月一日、避病院跡(現 新富町三~五)を整地・新築して環境にも恵まれた現在地に移転。定員一二〇名。
 なお、昭和二十二年四月には、託児所を併設して特に貧困者の幼児をあずかると、当時の日記に記されている。
 季節託児所は、農繁期などに保護者が働かねばならない時に、放置されがちな乳幼児を、保護者にかわって保育する施設で、昭和五・六年ころより徐々に増加し、県下の託児数は約三、〇〇〇人に及んだ。日中戦争後は急激に増え、その数は、同十三年には三万人を超している。
 このことは、働きざかりの一家の当主が、戦場にかり出されたあとを守るために、残された婦女子が乳幼児を保育所にあずけることが多くなったことを示している。要保護と健全育成を兼ねていたということができる。
 栃木県下の婦人会が主体となって、各市町村長へ託児所設置を呼びかけたのであるが、次はその文書を示す。
 
 昭和八年四月二十八日
   愛国婦人会栃木県支部長
大田原町長殿
  農繁期託児所開設ノ件
農繁期ニ当リ一家ヲ挙ケ戸外労働ニ従事スル結果トシテ乳幼児ヲ有スル家庭ニ於テハ之ガ保育上尠カラズ苦心致シ居ル現在ニ有之従テ之カ対策トシテ農繁期託児所ヲ開設シ以テ農家ノ幼児ヲ保育スルハ現下ノ状態ニ照シ農村社会施設トシテ最モ緊急適切ナル施設ト被認候而シテ之ガ開設ニ就テハ従来県ニ於テ補助金ヲ交付シ勧誘シ来リタル処今日県ノ依託ヲ受ケ本会ノ事業トシテ実施スルコト相成候付テハ別記要項御了知ノ上貴市町村婦人団体・小学校・社会事業団体・社会関係者其ノ他適切ナル向ニ対シ開設方可然御配慮相煩度此段及御依頼候也

(大田原・第八九)

 これに対して、町は、各種団体及び篤志家に託児所設立を呼びかける一方、講習会などを開いて、保母を養成したのである。
 それに先がけて佐久山母の会(婦人会の前身)では、昭和三年に設立と同時に、母の会の手によって託児所を開設し、育児事業を行っていたことは前述のとおりである。