大正十三年(一九二四)六月、栃木県社会事業協会において「輔導委員」設置を決定し、県下の市町村に対して、その設置を呼びかけた。当時の社会情勢は保護施設の必要性を痛感していたこともあって、その呼びかけに応じ、二市二九か町村・三五七名の補導委員が設置されたのである。大田原においても、その趣旨に同意し、「大田原町輔導委員会」が設立されたのは、同年九月二十日のことである。
大田原町補導委員会については、「郷土教育資料」(大田原小学校所蔵)にその概要が記されているが、それによれば、設立の目的として「大田原町に於ける各個人の福祉増進に努むるを本旨として、常に形式に捉はれず、隣保相扶の情誼に基き、機宜の処置を講ずること」と述べ、この精神は、方面委員・民生委員制度へ引き継がれるのである。
補導委員の遂行すべき任務には、住民の生活状態の調査・窮民救助・罹災救助・失業保護・児童保護・社会教化・その他社会改善に必要な事項の調査や実施等であった。これらの任務遂行にあたっては、多くの義務が課せられていたのであるが、この制度は何ら法的な裏付けもなく、公的経費の予算措置もなかったので、この活動は委員の犠牲的奉仕の精神にたより、住民の隣保相扶の情義に基づいたものであった。補導委員は社会の底辺に沈滞する恵まれない人々を更生させ、明るい住みよい地域づくりに貢献したのである。同委員会には、会長 川上利一・常任委員 中井本儀・補導委員 稲野鉦四郎・河野鉄太郎・瀬尾義弘・土井忠儀・川上利一・顧問警察署長大貫安三郎等が選任されたのである。その主な活動内容をみると、区長・警察署・学校等に依頼して貧民者の調査を行ったり、貧民救済事業として食料の給与、無料診療券・施薬券の発行、歳末週間には餅を供与したりしている。その数は戸数にして三四戸、家族人数一一〇名と記されている。
昭和七年に「救護法」施行に伴い、栃木県では市町村長の補助機関に補導委員をあてることになり、従来、栃木県社会事業協会長が嘱託していた補導委員を知事の嘱託とし、名称も全国的に使用されている「方面委員」と改めることになり、「栃木県方面委員規程」(昭和六年十二月栃木県告示第八一七号)が制定され、栃木県の方面委員制度が確立されたのである。その後、「方面委員令」(昭和十二年一月施行)により、全国統一的な方面委員制度が確立したのである。
日中戦争から太平洋戦争へと、戦争が苛烈になるに従い、国民はすべて戦力増強の国策にそって、戦争遂行のための行動を求められ、方面委員も軍事援護を中心とした活動をする一方、一般要保護者の保護救済など、地味で目だたない陰の活動を続けていたのである。
第二次世界大戦後、方面委員は新しい時代に即応した活動が期待され、昭和二十一年「民生委員令」が施行されるとともに、名称も民生委員と改められ、同時に「生活保護法」が施行され、福祉国家の社会福祉第一線のパイロットとしての機能を、要求されることになったのである(「栃木県社会事業史」)。