痲疹地蔵について、「金田村郷土史」には次のように記されている。
大字市野沢字荒屋敷宝積院跡(当寺は明治十九年四月妙徳寺に併合現在畑地)の東隅に痲疹地蔵あり、(中略)室の奥まりたる壇上には石造りの地蔵尊を安置す。尊像は三体ありて、中央は九寸右なるは一尺六寸左は一尺八寸也何れも赤帛の小児腹掛を以て体を覆はる。痲疹(はしか)流行の時は此の地蔵尊より腹掛を借り受け小児に体せしむれば罹病を免れ或は罹病しても全癒速かなりと言ひ霊験あらたかなりと云ふ。
このことからも、神仏の力に頼って病気を早くしかも軽く治そうとする風習が行われたのである。
疱瘡神についても同様な事があったといわれている。市内薄葉地区に疱瘡坂という地名が残っているが、この坂は疱瘡神に通ずるので命名されたものと思われる。昭和の初期まで疱瘡神の前に字の子どもを集めて祭礼を行ったということである。今は疱瘡神社として小さな堂宇が薄葉の温泉神社の境内に建っている。
天然痘予防はジェンナーによって牛痘接種法(一七九六)が発見され、わが国に普及したのは嘉永二年(一八四九)であった。
同四年大田原藩の北条諒斉が江戸において洋医を学び、種痘術を修得してきて、牛痘接種を大田原地方に実施した。しかし、当時はほうそうは厄病神によるものとする迷信が頑強であって、厄病神を人体に植えつけることは恐しい結果になるとして、種痘所に寄りつかなかったということである。
明治になっても種痘は一般化されなかったので、明治五年(一八七二)には、諒斉は栃木県令鍋島幹に建言書を提出し、県令によって種痘を命ずるよう要望した。さらに九年には、罰金制度を設けるよう建議したが、まだその段階では実行されなかったのである。
佐久山町衛生組合規則(佐久山・第四四)の中に「疾病ノ治療ヲ専ラ神仏祈祷等ニ委シ医薬ヲ怠ルノ弊害ヲ厳ニ矯正スル事」とあることなどから、当時の世相の一端が推測できるのである。