那須郡医師会と大田原

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 明治四十年(一九〇七)三月二十六日、那須郡に在住する医師四八名が、那須郡役所に会し、総会を開いて成立したのが「那須郡医師会」である。当日、議長に坂内伯意(初代会長)が選出され、会則討議、会長・副会長及び役員の選挙などが行われた。会則については委員付託となり、投票により一〇名の委員、会長・副会長その他の役員が選出されたのである。
 本市関係では、副会長に田崎良之助、委員には毛利鉄久・田崎良之助が選ばれたのである。
 役員の任期は四年とし、同年六月十一日設立認可されたのである。
 四年後の同四十四年(一九一一)二月、一部会則の変更があって、会長に毛利鉄久、副会長に田崎良之助に決定した。両人とも大田原在住の医師である。
 医師会の事業としては顕著なものに陸軍大演習の救護活動があった。同四十年(一九〇七)十一月五日に行われた当地方の大演習において、本市蛇尾橋付近の民家を借りて救護所を設け、一週間にわたって医師及び看護婦が出張した。演習とはいえ実戦同様の激しい戦闘が行われ、五名の負傷者一名の死者を収容したということである。
 同四十二年(一九〇九)十一月の特別大演習においても、大田原町内の大田原病院(院長・毛利鉄久)・花崎医院(院長・花崎周悦)・田崎医院(院長・田崎良之助)・西那須野町中江医院(院長・中江馨)・佐久山町村井医院(院長・村井庸)内に救護所を設け、それぞれの病院の医師及び佐久山の荒井啓三郎・親園の高橋泰等が参加して、救護活動を行ったのである。入院治療をしたもの一一名に及んだと「那須郡時報(一)」(那須郡役所)に記されている。
 同四十三年(一九一〇)九月六日、大田原中学校(現 大田原高校)に皇太子をお迎えした時には、成田町に救護所を設置し、田崎良之助ほか三名の医師が出動し、無料にて治療に当たったのである。
 治療関係では、坂内会長時代に次のような決議をして実践している。
 
   一、トラホーム治療
 全会員が全力を注いで予防・減少を図ること。その為に治療・薬価・日当等は会規約の三分の一に減額すること、合せて郡長には治療を勧誘するよう、行政指導を行う旨示唆した。
  治療費は次のとおりである。
  甲種(普通)相当の資産を有する者及び家族の者
  乙種(半額)生計困難なもの及び家族壮丁・学生・傭人・芸伎・娼伎
  丙種(無料)赤貧者
(「那須郡時報(一)」那須郡役所)

 当時まんえんしたトラホームの予防及び治療に関心を注いだことが分るのである。
 同四十四年(一九一一)以降の田崎会長時代には、栃木県知事と請書を交わし、患者治療に当ったのである。
 請書の内容を要約すると、次のようなものであった。
  ○済生会(明治四十四年明治天皇の下賜金を基金として成立した医療施設)の救療投薬のこと
  ○患者の治療態度のこと
  ○薬価・入院料・車馬賃等の料金のこと
  ○薬価・入院料・車馬賃等の請求方法のこと

(「那須郡時報(一)」那須郡役所)

 このような活躍を行ってきた那須郡医師会は、会員相互の意思疎通を図り、医術上の研さんを深め、会長・役員も、南部と北部から交互に選出する等円満な医師会といわれ、那須地方の医療関係に果した役割は大きいものがあるのである。
 医師会設立当初の会員で本市域関係者は次のとおりである。
 
  大田原町      花崎周悦
   〃        毛利鉄久
   〃        田崎良之助
   〃        天野可美
   〃        山中慶次
  親園村大字滝沢   高橋泰
  野崎村大字成田   大貫玄享
  佐久山町大字佐久山 荒井啓三郎
            村井庸
(「栃木県医師会史」)

 なお、田崎病院内には「大田原看護婦産婆養成所」があって、これが養成に努めたのである。
 当時伝染病が横行し、看護婦が不足していたので、郡費で費用の一部を補助して看護婦の養成を当病院内で行ったのである。