改良便所と寄生虫

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昭和十六年、親園村は厚生省指定村となった。その直前に、大田原保健所では全村一斉寄生虫検査を実施したのである。その結果は第18表のとおりであり、寄生虫保有率は四一パーセントという結果が出たのである。
第18表 親園村に於ける寄生虫検査成績
(昭和16年2月 大田原保健所調査)
種別検査人員保卵者数検査人員対保卵者(%)蛔虫鈎虫鞭虫2卵同時保有者
字別保卵者数百分比(%)保卵者数百分比(%)保卵者数百分比(%)
親園北区65127942.920731.86810.440.619
〃 南区32118557.612238.06319.617
実取26712546.88632.23713.920.78
滝沢22612555.39642.54912.81
滝岡22810445.67934.72310.120.910
花園52012023.18115.6366.930.610
荻の目1777844.16737.9116.24
宇田川53918434.115328.4305.210.29
2,9291,20041.089130.431710.8120.478
(注)本表は4歳以上の者の調査成績

 親園村では、早速その寄生虫撲滅のため、厚生省B型三槽改良便所を全村に設置することを決定したが、農漁村に実在する「年回り」・「方位」等の迷信が根強く残っていたので、便所の改良事業は容易に進展しなかったのであるが、厚生省・県衛生課・大田原保健所及び村当局の協力と村民の理解によって、翌十七年には、全村便所の八五パーセントが改善されたのである。この事業が軌道に乗り始めた矢先に太平洋戦争となり、セメント等の資材の不足をきたし、加えて、本事業推進の原動力であった村医高橋安雄の応召により、一時中断せざるをえなかったのである。
 戦後を迎え、昭和二十四年、再び本事業を復活し、村からの補助金を支出することによって、改良便所の設置を奨励したのである。
 翌二十五年、隣接町村の小・中学校と親園村の小中学校の寄生虫保卵者を比較したところ、第19・20表に示すように親園地区一七・二パーセント、他町村では六五・二パーセントの保卵率を示し、他地区の保卵者数は親園地区の三・八倍にも及んでいたのである。村民は寄生虫と便所との関わりの深さを知り、医師高橋安雄の指導のもと検便と駆除につとめたのである。
第19表 昭和25年親園村寄生虫検査
種別検査人員蛔虫保卵者数百分率(%)鈎虫保卵者その他の虫卵
字別
親園北区5316311.94
〃 南区3358425.12
実取2382912.11
滝沢2393213.4
滝岡2342611.11
花園4005513.81
荻の目2025828.71
宇田川4925110.411
2,67139814.921
小学校75618524.5
中学校4107618.5
3,83765917.221
(「千葉医師会雑誌」第29巻)

第20表 昭和25年那須郡北部小中学校蛔虫保有検査(中学5,小学12)
検査人員蛔虫保卵者百分率(%)
4,7713,11065.2
(「千葉医師会雑誌」第29巻)

 当時の村及び諸団体の活動は次のとおりである。
一、改良便所の全戸設置を期して村当局は昭和二十四年度より毎年四〇戸を限度に一戸二、五〇〇円の補助金を支出している。

二、寄生虫予防に対しては、検便の費用及び駆虫薬の全額を村で支出している。

三、婦人会は検便に協力し、昭和二十四年以降毎年各部落において寄生虫やその他衛生関係の座談会を催し、検便の際には一日平均四人婦人会員が検便助手として出動した。

四、小中学校教員は寄生虫に対する関心が深く、寄生虫の講習会或は寄生虫保有生徒の調査を実施している。検便の際の封筒・竹ようじ等は全部中学生の仕事である。

五、農業協同組合は検便に協力し、採便用のセロハンを供用し、又大田原保健所が特に陰に陽に協力している。

(「千葉医学会雑誌」第二九巻 高橋安雄論文)

 これらは村ぐるみの総力をあげての事業であったのである。

親園婦人会による寄生虫検査(高橋安雄氏提供)

 かくして、「虫のいない村」であるということで、日本農業新聞(昭和三十五年月日不明)には次のように記されている。「農村地帯をわがもの顔にのさばっている寄生虫(回虫、コウ虫など)も栃木県大田原市親園地区では幅をきかすことができない。ここは保健・衛生の水準が高く〝虫〟のくい入るスキがない。(以下略)……」保卵者は全国平均の一〇分の一以下で、回虫は完全に追放した地区(宇田川)もあったのである。昭和二十四年から始めた朝日新聞主催の健康優良校コンクールにおいては地区内の宇田川小学校が連続して栃木県一位、あるいは県準一位に入賞したというほどの好結果が出てきた。