湯坂遺跡報告書の発刊によせて―本遺跡調査の意義―

渡辺龍瑞

 昭和32年早春のある日,金丸小学校から照会あり,塚越・高橋・島村の三教諭が来所され,土器片・石器などを持参された。これが湯坂遺跡の遺物で,筆者はその異常な姿に興味と関心とをさらに掻立てられた。阿玉台・勝坂式とよばれるものの要素もあり,東北的なそれもあるという,当時としては特異な姿をもつ土器片に,筆者はすっかり魅せられてしまった。これらは市町村合併後の市道の改修工事で,湯坂の集落の上の坂から発見された由であった。もっとも筆者は昭和15年頃旧制大田原中学の資料で湯坂の遺物を知り,その特異さに注意していたので,関心を強めた訳である。
 湯坂遺跡は里人は古くから知っていた。ここは白旗丘陵の鞍部にあたり,遺跡内を山道(合併後の市道)が通り蜂巣方面へ向かう。これが湯坂で急なので幾度か改修があり,その都度遺物が発見されたからである。地元の新江・小泉氏らの調査希望の熱意が当局に響き,当局の関谷教育長・飯島社教課長らはこれに応えて主体者となった。担当者に筆者が委嘱され,実施調査・協議などの後,宇大辰巳教授他歴研学生・国学院生沢・栗原両氏ら15名で調査班を組み,地元青年団員の協力もえて,発掘を実施した。本報告作成の主力になった海老原氏も当時の参加学生で,縄文中期に特に関心をもつ動機となった由であり,また後年の第二次調査の主動力にもなった。筆者も当時縄文全般の編年を志していたので,意欲をもって取りかかった。
 調査の結果はやはり重要な遺跡であることが確認された。その個々の内容については本文にゆずるが,1・2のことにふれておきたい。調査全体を通じて本遺跡・遺物の示すものは,縄文中期前半から後半に移行する過渡期の様相を物語っている。より具体的にいうと,阿玉台・勝坂式から加曽利E式への移行の一時期の姿なのであろうと思われる。この時期は当時の学界では未だ細分されておらず,漠然と新古を論ずる程度であったが,本遺跡の調査によって,湯坂遺跡の遺構・遺物が凡そ一時期のものに属する実際相として把握できたので,その標準的遺跡として,以後の多くの調査の標準となった。この意味で県内ないし北関東の重要遺跡として知られ,大田原市史跡に指定された。
 当時法による報告書は筆者自筆の稿本で提出した。その後詳細な報告書作成を志して実行に移したが,かなり進んだ業半ばで身辺多忙となってしまい,また印刷事情や当事者の異動など内外の原因で本報告書は日の目をみなかった。これは大いに責任を感じていた矢先,本報告書が公刊されることになり,心から喜びほっと胸をなでおろし,求められるまま拙稿を提出する次第,ご海容を乞うものである。
拙稿文献 渡辺龍瑞 「大田原市湯坂遺跡調査メモ」『史友』8号 昭和33年宇大歴史研究会
      同   「栃木県那須郡湯坂遺跡」『日本考古学年報』10 昭和38年
      同   「湯坂遺跡」『栃木県史資料編考古―』昭和51年 栃木県