紡錘形状の那須野が原扇状地が八溝山地に接するあたりの,雁行する4本の丘陵のうち東から2本目の白旗丘陵に湯坂遺跡は立地している。丘陵の東縁寄り湯坂川が南流する。白旗丘陵は,第四紀の高原累層(湖沼堆積層=下部は粘土・砂礫の互層,上部は軽石層)を基盤に形成された扇状地(扇状地古期砂礫層)の残丘で,その後に各期関東ロームでおおわれる。扇状地の開折面はその後新しい扇状地砂礫層でおおわれる。白旗丘陵の先端附近西縁に湯坂遺跡は占地するが,扇端部にあたるこの一帯で周知遺跡が群集している。那珂川を境に八溝山地に至れば山間の谷沿いに遺跡の〝過密〟ゾーンがあるが,遺跡の〝過疎〟ゾーンにあっては湯坂一帯はその群集状況が目立つ地域である。第1図の遺跡分布図はこの部分を切り抜いたものである。遺跡は14か所で,立地する場所は,残丘,扇状地開折面,那珂川西岸の段丘面の三つに分けられる。残丘にあるものは,蜂巣遺跡(1)・檜木沢遺跡(2),湯坂遺跡(3)・白旗城跡遺跡(4)・白旗山城(5),馬場遺跡(10)。扇状地開折面にあるものは,根小屋館跡(11)・金丸塚古墳(9)・籠華城跡(8)。那珂川西岸の段丘面にあるものは,奥沢氏居館跡(6)・犬追馬場城跡(7)・川西中学校遺跡(12)・築地居館跡(13)・川西小学校遺跡(14)。14遺跡のうち,7遺跡が縄文時代,6遺跡が城居館跡,1遺跡が古墳,という組合せである。考古学上では,縄文時代の中後期に,丘陵と段丘面にいくつかの集落が営まれたきり,歴史時代に入るまで全くの過疎状態であるといえる。採集経済から農耕を伴う生産経済に移った段階ではすでに不適な環境であった訳だが,裏がえせば,雑木林の丘陵と東方の那珂川・八溝山地を採集狩猟の好適地として至近距離に位置することは縄文人にとってはきわめて恵まれた環境であったと考えられる。残丘上には,ここより北方にも長者平遺跡など縄文中期の大集落はあるが,〝点在,状態にあり湯坂周辺よりは過疎である〟。4の縄文期集落跡は中世の城跡と重複したケースだが,他にも少くない事例で,立地条件に符合するものがあるのかも知れない。遺跡の分布をみると,白旗城址を別にすると城館址には平坦地が選ばれているのが注意される。
湯坂遺跡は扇状地開折面から比高18mほどで,その裾から清洌な湧水が流出し,湯坂地区内にも豊富な流水がみられる。高乾で平坦な台地の縁辺部分で眺望のよいところに占地する当地方縄文中期集落跡の典型で,山林であるため遺跡範囲は明確ではないが,現在の切通し道路の南側陸田部分にも散布がみられかなり広範に及ぶ可能性も考えられる。
1図 湯坂周辺の遺跡
1.蜂巣遺跡 2.檜木沢遺跡 3.湯坂遺跡 4.白旗城跡遺跡 5.白旗山城
6.奥沢氏居舘跡 7.犬追馬場城跡 8.籠華城跡 9.金丸塚古墳 10.馬場遺跡
11.根小屋舘跡 12.川西中学校遺跡 13.築地居舘跡 14.川西小学校遺跡