1.湯坂遺跡の調査経緯とその時代

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 〝戦後〟の昭和20年代を経て,科学的調査方法を導入した総合的な研究をめざす発掘調査が普遍化し,大学・各研究団体・研究者等による「学術調査」が活発化していた――昭和30年代初頭はそうした時代であった。日本考古学年報昭和32年版によると遺跡発掘届が出されたのは全国で339件,そのうち栃木県は7件であった。文化庁が集計した「埋蔵文化財発掘届出等件数」(昭53.9)によると,昭和35年から52年度までに,学術調査は毎年200件前後で横這い状態にあるのに対し緊急調査は昭和38年度以降逐年急上昇し昭和46度からは1,009件から5,501件と垂直に近い急高騰ぶりである。ほとんどの発掘が「行政発掘」である今日からみて,本「湯坂遺跡」の発掘調査が行われた昭和32年度はまさに汚れを知らぬ(?)「学術調査」の全盛期であり牧歌的で悠長な時代でもあった。しかし,開発による遺跡壊滅は規模こそ大きくなかったが徐々に進行していた。昭和33年早春,湯坂付近の「頭無遺跡」(かしらなし=縄文中期)を訪れたとき開田工事が終了したばかりの地面に土器片が白々と散布している光景に思わず立ちすくんだ記憶は今に新しい。このような開発に伴う遺跡破壊は徐々に進行していたが,昭和38年ごろから学術調査を緊急発掘が上廻り,以降は経済の高度成長時代の波にのって驚異的スピードで遺跡破壊が行われる。重機の導入によって従前では考えられないような高台が〝米づくり〟増反計画で相次いで水田化されたのもこのころだった。縄文中期の大規模な集落跡が水田化に適した台地に占地していることが多いのは不幸であった。私の身近かな事例でも,氏家町狭間田地内「ハットヤ」遺跡が昭和38年暮,矢板市片岡乙畑地内「坊山遺跡」が昭和41年春に,同じころに氏家町鍛治ケ沢地内「鐘塚遺跡」などが次々に姿を消していった。ほとんど正規の調査を終ぬまま闇に葬り去られた遺跡がこのころから以降にどれくらいあったことだろう。
 ハットヤ遺跡のことを回想すると,今でもひきちぎられた遺跡の無念さ余った鬼哭啾啾の声を聞く思いがする。
 
 ハットヤ遺跡は縄文中・後・晩期と土師期との集落が重複,10haほどの遺物散布をみる畑地で,県内でも有数の大遺跡であった。いつかは学術発掘のクワを入れよう――考古学者が楽しみに発掘を夢みていた遺跡であった。
 だが,昭和38年暮から39年2月にかけての改田工事で,ブルがひとたびうなりを上げると,貴重な遺構と遺物を胎蔵した文化層は引きちぎられ,粉砕された。遺跡が少なくとも三千数百年来維持しつづけてきた相関関係は壊滅したのだった。できたての田の全面に,もはや死滅した土器と石器の残片が白々と散布した光景は凄絶の一言につきた。(朝日新聞栃木版 ルポ今昔「消えた遺跡」 昭和51年5月 拙稿)
 昭和45年「万国博」前後をピークとする好況を経て大規模な土木工事に伴う遺跡の緊急発掘件数は急高騰していった。その原因者は,国(国道等),県や市町村(宅造,工業団地,区画整理,農業基盤整備,道路等),公団・公社(高速自動車道,新幹線,宅造等)などの〝国の機関等〟で,公共主導型開発と称されるものである。かくして,昭和40年代における公共的大規模開発に行政サイドの対応が余儀なくされた。栃木県では,昭和44年に東北自動車関係遺跡の発掘調査に始まって,昭和47年から東北新幹線関係,昭和48年から新4号国道関係の調査が相次ぎ,昭和40年代後半から農業基盤整備事業の進渉に伴って圃場整備や広域農道建設に係る遺跡発掘も併行して実施されるようになった。昭和50年の文化財保護法第3次改正はこの間の文化財の危機に対応し,特に埋蔵文化財の保護強化策として,遺跡地開発における事前協議の義務づけや工事に伴う遺跡発見の場合の工事停止命令権を成文化し従前の「覚書」だけでは不徹底だった国等の機関による開発行為の調整をはかる支柱がつくられたのであった。
 湯坂遺跡の発掘が行なわれた昭和32年ころには思いも及ばなかった「行政発掘」,「調査経費の原因者負担」などの言葉が定着し日常化してもう久しい。湯坂遺跡はその成果の豊かさの故に,地元民と大田原市当局によって愛護され昭和36年市史跡として指定された。遺跡は雑木林におおわれた当時のままいささかも開発によって損われることなく眠りつづけている。前記したハットヤ遺跡の無念さと較べるとき何と幸せな遺跡であることかと感嘆せざるを得ない。ここに当時の状況と発掘調査にいたる経緯を記してみよう。
 昭和32年度の遺跡発掘は表の通りで,辰巳四郎・渡辺龍端両氏を中心とする縄文集落跡の発掘調査の活況ぶりが目立っている。開発の要請にもとずかない調査しかなく,それがただの7件というつつましさ。面積も小規模で調査後は遺構は丁寧に埋戻されるのが常であった。
昭和32年度 栃木県内遺跡発掘・発見届
遺跡名(時期)種別所在地発掘担当者発掘期日主体者
鳥羽分校(先土器)集落跡塩谷郡玉生村鳥羽新田(松平義人)昭32(発見)
――祭祀塩谷郡矢板町豊田亀井正道昭32.3亀井正道
追窪(縄=晩)集落跡那須郡那須町寄居辰巳四郎昭32.8.15~21宇大歴研
釈迦堂山(縄=前)集落跡那須郡那須町伊王野渡辺龍瑞昭32.8.23~25作新郷ク
湯坂(縄=中)集落跡大田原市北金丸渡辺龍瑞昭32.10.3~12市教委
高松(縄弥生)集落跡足利市御厨町高松前沢輝政昭32.8.11~10.3早大考研
――古墳芳賀郡市貝村市塙三木文雄昭32.8.10~31大塚政四郎
――古墳芳賀郡市貝村勝美沢樋口清之昭32.8.21~30烏山中学

 湯坂地内の住民にとって〈湯坂山〉はとりわけ関心の強い場所であった。戦前から,遺跡を横断している道路の道普請をするたびに多量の土器片などが出土したからである。それらの遺物は郷土愛と尊崇の念厚き里人の手によって大田原中学(戦前)や地元の金丸小学校に寄託された。湯坂遺跡調査へ動機もこうした地元住民の永年の関心を背景として,とりわけ地元や青年団の協力を得るための新江丈夫・新江元吉・小泉喜義氏らの熱意あふれる努力により,大田原市教委主体の調査実施となったものである。この間の事情は当時の事務局益子孝治担当技師の別項記事にゆずるが,渡辺龍瑞氏は調査にいたる経緯を次のように述べている。
 
 この遺跡発見と動機は,この鞍部を道が通り(これが湯坂で部落名もこの坂の名に因っている),その切断した断面から遺物が出ることを,里人は古くから知っていた。しかもこの坂は急峻なので,何回も削って緩められ,そのたびに遺物が出たらしく,昭和15年頃大田原高校(当時の旧制中学)の資料中に渡辺龍瑞が発見,阿玉台式とも加曽利式ともつかぬ特異さを注目した。さらに(町村)合併後の31年夏から32年春へかけて,市道編入後の大改修がおこなわれ,多数の土・石器が出土した。これが地元金丸小学校の塚越・高橋・島村教諭等の注意にのぼり,やがて地元の新江・小泉氏等から調査の熱望が生まれ,大田原市教委の採上げるところとなった。かくて市教委と部落の奔走・合弁により,調査が実施された。(日本考古学年報10 昭和32年度版より抄出)
 
 この調査の作業は10名の学生と地元青年団有志との労力提供によって行なわれた。青年団の方々は収穫期の繁忙をきわめる中で日取りを調整して当番をきめて作業に出てくれた。学生には1日何百円かの日当が出たが,青年団の方は〝奉仕〟であったらしく,今から思えばかなり破格の事例だが,湯坂地区公民館(当時は新築間もないころ)に合宿する調査団のために婦人会が交代で炊飯にあたり,布団と毎晩のお風呂を提供して下さったのであった。
(家族より先に入浴させていただき少しく頂戴したコップ酒で微醺と共に,色づいた稲田の中の小道を昼間の話に興じながら宿舎に戻ったのも懐しい思い出である)
 たかだが10日程度の調査にしては豊富な遺物と遺構に恵まれた本調査は後半は〝人手不足〟で作業が夕刻を過ぎても終らないことがあった。渡辺氏の手記から抄出すると
 
 カンテラに揚げる秋夜の土器妖し
 遺墟の土器手に手を宿へ月のぼる
 
 これらの発掘期間を通じて人数の割に面積が大きいので,急がしい調査であった。(地元青年の割当人数が必要量出なかったので苦しかった)
 
 のような状況であったが,収穫期の農家の跡取り息子達にとってまさに無理からぬ事情であったものだろう。
 ともあれ,調査は大過なく終了した。前出の昭和32年度県内発掘調査の一覧表に見るとおり,7件中で唯一の市町村教委主体の調査であった。調査成果の大きさは地元住民の関心評価と共に,市教委の文化財保護施策における重要事項として検討されることになった。こうして昭和36年3月22日,湯坂遺跡は大田原市指定史跡(現況=山林。所有者=小泉博)となった。同じ日付で指定された中田原二本松「一里塚」と共に市指定のナンバーワンである。「栃木県文化財目録(昭和49年3月31日現在)」・「栃木県所在文化財総目録(昭和47年10月1日現在)」(文末文献)によると,大田原市は昭和47年までに12件の史跡指定(うち5件は碑・墓所)をしているが,湯坂遺跡指定の昭和36年度までの県内の史跡指定(国・県・市町村)は埋蔵文化財関係を合計して68件,その後昭和49年度の総件数が207件(国=21,県=38,市町村=148)であるのでまだ3分の1程度に過ぎなかったわけである。その68件のうち昭和36年度分のみでは18件で,従前の件数と比べてこの年度が多いのは,大田原市の6件中の6件・藤岡町の4件中の4件・小川町の3件中の2件などで,既に国指定クラスの重要遺跡ゾーンの国分寺町(2件)・壬生町(8件)・小山市(5件)は別格としても,宇都宮市(6件)・足利市(5件)・真岡市(5件)などに36年度の指定がないのは既に大正年間から昭和初年に至る間にその重要度が顕彰されていたからに他ならない。その意味では昭和36年度前後は指定件数が漸増しはじめる動きの一極点にあたるとも考えられ,前述のように昭和30年代後半の造田ブームに先行し,結果的には昭和40年代における公共的大規模開発を遙かに見越して遺跡保護の網の目をかぶせたことになる訳で,改めてその重みを実感するのである。
 湯坂遺跡の発掘成果は,別項記述の通り遺物の特異性と縄文中期に伴う群在土壙との研究において,本県縄文中期文化を考究する者たちの原点であった。幾人かの論考による〈湯坂遺跡へのアプローチ〉こそは,その後に続出した中期遺跡発掘により少しずつ解明され始めた〝中期的現象〟への問題提起であり胎動でもあった。かくして湯坂遺跡が縄文中期文化研究における一つの嚆矢であり,学ばんとする者たちにとっての原点であるなら,尚いっそう〈湯坂〉は守られ継がれていかねばならないものと考えられるのである。
 
 参考文献
 最近10年間の本県に於ける考古学発掘調査活動に就て 辰巳四郎 史友10号宇都宮大学歴史研究会 昭和34年2月
 埋蔵文化財の愛護と活用 現職教育資料第270号 栃木県教育委員会義務教育課 昭和53年10月
 精説文化財保護法 椎名慎太郎 新日本法規 昭和52年5月
 栃木県那須郡湯坂遺跡 渡辺龍瑞 日本考古学年報10 昭和32年度版 日本考古学協会編纂 昭和38年3月
 栃木県文化財目録 栃木県教育委員会(編集文化課文化財保護係) 昭和49年3月
 栃木県市町村内所在指定文化財目録 栃木県市町村文化財保護委員会協議会 昭和49年1月