調査日誌

14 ~ 15
 昭和32年10月3日
 渡辺,湯坂遺跡現地立会い。大田原市教委の手配で湯坂地区青年団有志・地主各位により調査予定の雑木・茅等の伐採,刈払いをする。夜,宿舎の湯坂公民館に国学院大学生=澤四郎(4年)・栗原文蔵(3年)着。
 10月4日 晴
 午前中,伐採,刈払いを継続。宿舎に宇都宮大学生=史学科3年坂本彬ら8名着。午后1時半に発掘の鍬入式。大田原市長・教育長・地主・各関係機関立合い。台地縁に第1トレンチを設定,青年団有志の協力の下に発掘を開始。夕刻近く,遺跡を横断する市道の路面で栗原が土器個体群を発見。
 10月5日   始業9時・終業5時
 路面の土器群箇所は住居址と判明し第1号住居址と命名。7個体ほどが密集。楕円形のプランを確認し床面に及ぶ。第1トレンチⅠ区~Ⅳ区を掘りすすめる。夜,地元住民へ辰巳四郎・渡辺龍瑞担当の考古学講話及び「幻燈会」。塙静夫(作新学院教諭)来援。
 10月6日
 記録なし。(雨で午前11時で休業。)
 10月7日 晴
 朝,第1号住居址の土器群にかけおいたムシロを剥いだら1個体が持去られていた。プラン内の溜り水が引いた沈澱泥上に足跡! 第1トレンチⅤ区に土器を多出する土壙1基を発見。雑木林中にL字状の第2トレンチを設定。土壙1基を発見。市道寄りに第3,第4トレンチを設定。前者から硬玉製の有孔石器,後者から石囲炉様の集石が見つかる。発掘地点が都合5カ所に拡大され現場は活気づく。読売新聞夕刊に「湯坂台地発掘・ジョウ文中期の文化に裏付」とする記事が載る。
 10月8日 晴
 第1号住居址をほぼ完掘。床面にクルミ。床面中央に土壙があり堆積とみられる焼土があり,また炭化した栗の実が出土。各トレンチの作業を継続。T1―Ⅴ区の土壙は深さ250cm以上に達し,穴の下半部に,焼土・炭化物の塊と共に大量の土器個体(とくに大型)か累積して出土。新聞記者来。T4の集石を写真にとる。作業が暗くなるまで続く。
 10月9日 晴,
 T2の焼土面を拡張,プランは不明確ながら柱穴様ピットの存在により住居址と判断,第2号住居址とするT3で土壙を発見,掘り上げる。夜,地元主催の慰労会。
 10月10日
 各調査の完掘を急ぐ。遺物を取り上げ新聞紙で包みリンゴ箱へ詰める。宇大生ら帰宅。
 10月11日
 渡辺・澤・栗原ら残務整理。調査終了。
 この後,地元住民の厚意で,各調査区の埋め戻しがあり,一方,箱づめした遺物は市教委手配のトラックで那須町伊王野の専称寺(渡辺龍瑞)へ送り届けられた。
 12月4~5日
 専称寺で遺物の水洗い(海老原)。夕食に奥様心づくしの鶏のスキヤキ。美味。
 12月11~12日
 専称寺で遺物の水洗い(同)。大部分を洗い終える。何耕地遺跡へ表面採集に行く。
 12月12日
 専称寺で遺物の水洗い(同)。終了。
 1月~3月
 専称寺で註記(渡辺・海老原)。土器接合・石膏復元等作業(栗原・海老原)。