渡辺龍瑞
今年(昭和32年)は昭和29年の5ケ所に次ぐ発掘の当り年で,夏中は那須町追の窪晩期縄文遺跡・同町釈迦堂山b前期縄文遺跡と続き,また中秋の10月3日からは大田原市湯坂の中期縄文遺跡の調査が行われた。此間,辰巳先生其他諸学兄を始め,歴研の学友諸兄姉と共に,延べ半月以上を極めて愉快に生活でき,また怪しげな先達ぶりをお目にかけ,冗談ばかり放送して恐縮したが,私の所期以上の援助にあずかり,御蔭を以て曲りなりにも責めを果すことができた。私個人としても,調査上のメスを振うことができた上に予期以上の大収獲で,32年を送るに当って反省してみると真に記念すべき年で,私の終始忘れえぬものがある。諸兄姉に心から感謝申上げたい。編集者からの勧めの尻馬にのって,私の謝意を表するため,始めて貴誌上に雑文を送るしだい。ただ私の怖れるのは,この悪文が宇陽の紙価を暴落させる可能あることである。
湯坂遺跡は大田原市の東端,黒羽町と境する北金丸の湯坂地区の北側を,東南走する白旗支丘(白旗城―大関氏の旧城―を突端にのせるのでかく仮称する)上にあり,東野線金丸原駅の東々北1.3kmに位置する。
白旗支丘は那珂川西岸の那須野に,平行して東南走する幾つかの洪積丘陵の内,東から3つめであり,それらの丘陵上には多くの中期や後期の縄文遺跡が分布をみせている。即ち同支丘にもすぐ眼下の西南にズッバタ(前期と土師期)東すれば東ッ原(後期)白旗城趾(中期)等の遺跡あり,1つ東の川西支丘には川西小学校遺跡(中期・東京国立博物館蔵の加曽利E式列品は有名)があり西南や南方には,南金丸支丘上に頭無(中期)馬場坪(早・前期)開拓地の多くの前期遺跡等がある。こうした中の1つが湯坂の中期縄文前半末の遺跡である。
湯坂遺跡はこの支丘の西南向きの舌状突出部を占め,標高213m,湯坂部落との比高約18mを示している。この支丘は概ね高くはないが,平地とは急斜面を以て接する処多く,頂は低平である。それで,急斜面の一方が少し緩やかになっている所や,突端部に先史遺跡や中世の山城が発達した訳で,湯坂遺跡はこの両様相を兼ねている。また湯坂の地区名もこの急斜面の坂の名に起因している。
遺跡の面積は約1丁歩以上にわたる代表的な中期縄文の集落跡で,その生活は,後背につながる丘陵の狩猟や,北金丸・篠原・余瀬等の低湿地等に食料を仰いだのであろう。因みに良好な湧水が眼下のズッバタ遺跡の他にズッバタの前期縄文集落や土師期集落をも潤おした訳で興味深い。
本格的発掘は4日午後1時半から市長・教育長・地主・其他各機関,団体代表者・地元の方々・多数の子供たち列席の下に鍬入式が行われ,引続きT1を設定し,調査が始まった。
尤も遺跡全体が山林なので,私は3日に出かけ,地主さんや地元の人々と伐採・刈払い・抜根・表面の剥取り等をやり,夜東京から応援の国大生2人が到着,翌日も3日の作業を午前中一ぱい行っている所へ諸兄姉が到着,発掘気分がふくれあがった。
かくて型の如く鍬入式を迎え,続いて10日の夕方まで,毎日急がしい1週間の調査であった。
発掘はT1が2m×30m,T2が1.5m×10m,T3は2m×8m,T4は2m×5m,それに偶然のことから市道上に第1号住居趾が発見・調査され,都合5ケ所が略図のように調査された。
3図 湯坂遺跡調査区見取図
T1は延長5m宛に6区に分け。先ず全員でそのⅠ・Ⅲ・Ⅴ・Ⅵ区を調査した。そして期間の後半になってⅡ・Ⅵ区の層位を駄目押しに,沢・白井君等が調査した。T1第1区を精査した結果・表土からローム層面までは約90cmあり,それを5層に分けられ,内表土から第3層黒褐色土層下半に当る50数cmから第4層褐色土層上半の70数cmに至る約20cmが最も濃密な遺物包含層で,ここいらが当時の生活地表だったと見られた。またこの傾向は今回の調査区域全般の遺構以外に見られ,層序の厚薄こそあれ,これは共通していた。逆にこの層以外の層序を示す所は,自然地表上への堆積ではなく,何か遺構がみられた。Ⅴ区に2.8mも深いピットが出,その底面には多量の土器片(接合可能がかなりある)がぎっしりと埋もれ,石崎・福田君等が10日まで終始奮斗した。
T2は伐期がきている大きな雑木林の中に設けられ,L字形のトレンチの南の方をA区,北の方をB区とした。B区に現われた焼土を中心に追求し拡張すると,床面ローム層表面にもち,重複した第2号住居跡が出て,これは沢・梁島・坂本・近藤君等で,困難を極めて11日までかかった。
T3は小トレンチ乍ら,その東端から有孔の不整形土器がレベルを確実に出土し,また西端には面白いピットが現われた。ここは海老原・栗原君等が担当した。
T4は佐藤東雄氏や阿久津君によって調査され,少しも焼けていないように見える炉趾様組石が出,ピットが一つ現われた。ここはもっと時間が許されて,T3の西端とつなげば面白いことになったと思う。
第1住居趾は,市道の湯坂をもう少しで登りきる所の路面一ぱいに姿を現わし,その上層からはやや接合可能の土器数個が出たことと共に注目に価する。
完全にローム層中に掘下げて構築されたもので,2次的なピットや,外部遺構まで判明した。
これは塙氏や栗原・藤田君等が担当した。これらの発掘期間を通じて人数の割に面積が大きいので,急がしい調査であった。 (地元青年の割当人員が必要量出なかったので,苦しかった。)
以上から判った遺跡遺構の大要は,
1 集落が営まれた時代の生活地表は,第3層黒褐色土層下半から第4層褐色土層上半に至る厚さ20cm内外の地層であること。
2 住居のプランは楕円形の竪穴式であるが,第1住居はローム層中への構築したもの,第2住居は床面はローム面に求め,壁はそれより上層の第3・4層に求めたもので,2通りあることが判った。共にこの型式で最初の発見である。
3 ピットが数ケ所判った。この中には貯蔵庫のものと,T1―Ⅴ区の深いものは,原始宗教の匂いの濃いものもあった。後者はどうも埋跡が認められたからである。
4 T1やT2の各所に出た焼土のある所は,黒色土が落ちこみ,3・4・5層が認められないので,こうした所は第2住居跡例からしても住居跡が発見される可能性が強いこと。これがセクションでT1には数ケ所発見されたので,T1を東内側に拡張すれば住居跡が数戸現われたことであろう。
尤もこれをやっていると,11日には終らなかったであろう
遺物はリンゴ箱に約25個ぐらいあった。自然遺物は木炭片・焼石・焼土・灰塊・クルミや山栗の炭化物(第1住居跡)もあった。
人工遺物の内,石器は割合にバラエテイに乏しいが,石鍬,打製石斧,磨製石斧,石ヒ・小石棒・磨石・槌石・凹石・多孔凹石石皿・有孔玉器等があった。
玉器は不整形乍ら,現在判っている日本全国100点ほどの内,層位と編年のはっきりしたものとして貴重で,那須郡約10点中の古い方,而も発掘で出た北関東最初のものである。
また第1号住居内からは黒曜石塊数個が加工を待つようにかたまっていた。
土器片に実にリンゴ箱23個分ぐらいあり,従来の編年からいうと,阿玉台式や勝坂に似たもの,加曽利E式の古い方に近いもの,奥羽の大木8式に似たもの等が組合わされており,而もそのどれでもないものがある。
器形も深鉢・浅鉢・盤等があり,整理して接合すれば10数個がやや完形になるかもしれない。早く接合したいと楽しみにしている。
以上のように,湯坂遺跡の示すものは,仮称湯坂式を設定できるかもしれない独特の様相をもっている。これは確かに,従来の編年上の阿玉台式→加曽利EⅠ式間の飛躍の中間を埋めるものであることを認めてよいものである。
これは12月に入って海老原君の応援をえてぽつぽつ整理を始め去る12日水洗を一応終って,13日一室にT毎に整列したが,更にこの認識を深めた次第である。
これから註記・接合・実測・作図・写真等を行ない,更に机上研究の上はっきり世に問いたいと念じているが整理に助勢できる方は是非援助してほしい。
湯坂遺跡は北関東で本発掘の行われたことの少ない中期前半末の,而も最初の調査ということができる。
この調査に参加でき,数々の新知見をえた上に,新型式設定可能の調査結果をえたことは,担当者として本当に幸運なことでこれ偏に諸兄姉の奮斗の賜物である。
本当に急がしい調査であったが,各分担も遺物整理も記録のまとめ,生活も非常にうまく行った。而もこの成果からみて諸兄姉は我慢して頂きたい。
去る1日夜(田舎のこと日で新餅をつく日)辰巳先生御骨折のカラースライドと湯坂調査の8mmのプリントができたので封切するとて,湯坂へ招かれ,50日振りで遺跡に立ち,またこぼれるほど集った湯坂の人々と久振りに宿舎だった会堂であい,初冬の一夜を楽しく過ごした。
翌日は夕方迄南金丸の遺跡発見に努め,約5ケ所発見し,映画は未編集であり,まだ遺物は撮っていないが,それらを終ってやがて御目にかけたいと思っている。あの遺跡は当時話に出ていたが,保存することに決まり,来年度の本予算で上屋ができることになった。
また市道は第1住居の所で左へ迂廻して通るようになるらしいこの度は,その仮小屋建設の相談もあった。やがて,社会教育施設としての湯坂遺跡保存が実現する訳である。
遺跡は少しも損われずに残っていた。そして諸君の鋤跡を永く残すことであろう。
(師走14日夜稿)