第1号住居址(第9図)

26 ~ 28
 切通した市道の坂道をほぼ登りつめた路面で土器個体(79など)が見つかったので(写真6及び7),これを追求したところ,路面のローム面に黒褐色土の落込み部分があることが分かり不整円形のプランを確認したものである。住居址の壁は,ほぼ垂直で坂上側の北寄りで58cm・坂下側の南寄りで20cm,路面整地で斜めに削取されているが,このあたりは台地平担部にあたっているので,坂上側の壁高はさほど削られておらず,切通断面で観察すると当時の生活面と思われる第3層(土器片多し)が地表下約70cmにあり,地表から床面まで約1m20cmなので差引きすると元の壁高は65cm内外であろうと推定される。プランは卵形状で長径410・短径380cmほど,床面は軟かで炉はなかった。床面に8個の柱穴と思われる小穴があり,切通し東側部を拡張してローム面まで掘削した際に壁外の位置で環状に6個の小穴が点在していた。
 このプランの中央部に円形の開口面(175×190cm)を呈する土壙があった。深さ38cmで壙底はフラットであり周囲は横に広がって袋状を呈するものであった。出土遺物は,底面より20cmほど浮きで土器片(阿玉台式)が4片,凹石,石鏃2個,炭化した炭など。壙底は軟かで踏み固められておらず,周壁寄りに焼土のブロック(図のドット部分)があり投棄によるものと判断される。

9図 第1号住居址

 結局,この住居址と土壙とは重複した時間差によって区別される遺構で,前者が古く後者が新しい。後者は所謂袋状土壙の下半部と考えられるが,前述のプラン確認面の土器個体はこの土壙の上方位置にあたっているからこれらは土壙廃絶に伴う投棄によるものと理解しておきたい。プラン内の遺物は10月7日から10日まで継続的に取り上げているが,土壙上半部と住居址覆土との遺物は混合していると見られるが,土器片を個々に眺めると阿玉台式(新)に比定されるもので,〈床面や住居跡上層の土器群間には型式差はない〉(昭和32年度版日本考古学年報 渡辺)としてよさそうである。中でも,切通し東側に拡張したプラン壁外の棚状部分に高原山産黒曜石塊7個が固まって出土し,床面では無文浅鉢・隆線に刻み目のある土器・地文に縄文をつけ結節沈線で施文した土器・キャタビラ文を伴う土器など末期的要素をもつ阿玉台式が顕著にみられることを書き留めておきたい。
 土壙内の土器と住居址床面の土器は土器形式による差がないので両者の時間差は小さい。