3.揺れている加曽利EⅠ式

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 湯坂遺跡における大木8a式のうち,前出のdを示準としてeを共伴する一群は初現的段階に位置づけられるとする考察は既述した。dは中・小型の深鉢形,eは大型の甕形を呈するが,両者の飾り文様の器面位置と内容の相違は器形に応じた視点の位置にも関係するのではなかろうか。斜め上方から土器を見た場合の最もよく見える部位に主体文様を展開しているからである。それはともあれ,これらの一群には,口頚部が丸みを帯びて,或いは「く」の字状に屈曲する所謂キャリパー状器形が見あたらない。この手のキャリパー状器形の土器は,口頚部文様と胴部文様を明確に分離し前者に集約化するが,大木8b式の段階に至るといっそうその傾向を強めていく。所謂キャリパー状深鉢形の一般化につれて大型甕形が減少していく。このような加曽利EⅠ式の段階的変化(第Ⅲ部で検討する)を,初現的な大木8a式を基点とする一連の発展的な流れとしてとらえられるだろうか。どうも,これにはいささか疑念がある。後に検討するように,当地方における加曽利EⅠ式の展開には北陸系統,南関東系統などの伝来的要素を加味合成しながら行なわれたふしがある。単純な発展消長過程の所産であるとは到底考えられない様相を呈している。すなわち,湯坂における大木8a式は初現的なステージに置かれるものではあるが,以後の加曽利EⅠ式がこれを母胎として直接に発展・変容を遂げたものではないだろうということである。斯して,初現的な土器を後続する発展形態の土台とみる意味で「プレ加曽利EⅠ」や「原加曽利EⅠ」とするならば,当地方においてはその類の土器はあり得ない,ということになる。湯坂の大木8a式が初現的であっても,総枠では広い意味での加曽利EⅠ式に含められるべきものである。
 関東地方における広範で長期的に展開する加曽利E式文化圏にあって,その初現的な段階はきわめて地方色が強く,さまざまな系統と在地的な伝統とが絡み合って揺れ動いている様相が看取される。そのため土器形式の推移・交替の面で「抵抗」や「ためらい」が具象化して,湯坂におけるが如き〝接触様式〟を生じることがあるわけである。。搖籃期のこのような在り方は局地的な変態相を生じやすく,揺れ動きながら次第に確立・定着の方向を途るものと考えられる。この意味で,関東各地の初現的な加曽利EⅠ式群の一つとして「湯坂の土器」をとらえ,〈揺れている加曽利EⅠ式〉として理解しておきたいのである。