湯坂遺跡の発掘調査は,縄文中期の事例としては昭和20年代末の宇都宮大郷土史クラブが行なった西那須野町槻沢遺跡,宇都宮市清原竹下遺跡などに次ぐものであったが現在と異り調査件数自体で稀少価値があった。
しかしながら,〈湯坂〉が本県の縄文文化研究者によって問題視されたのは前述したT1-Ⅴ区の深い土壙とその内部から出土した土器群の在り方が如何にも不可解であったからだった。土壙が中期遺跡に伴う一般的な遺構であることは当時の調査件数程度では知り得なかったし,内部に大量の土器が入っているのを見ればその特異さの故に〝埋納〟を推理するのも無理からぬことであった。それは出土した土器についてもいえることであった。縄文を地文にもち結節沈線を伴う渦巻文を主体文様とする土器―などあまり見聞されていなかったし,通例的な阿玉台式と加曽利EⅠ式が同時に存在し得るとはそれぞれを細分して考えるとしても土器形式の編年論が〝縦軸〟を中心に展開されていた当時としては未知で難解な問題であった。
その意味で〈湯坂〉は遺構と土器との二面の問題を提起しており,以降事例の増加と相俟って徐々に解明の途についていくのだが,〈湯坂〉はそうした出発点でありながらいつしか調査以来20余年を経ていたのである。もう1つ,調査で出土した奇妙な三角錐状の打製石器は後述のように一度だけ注意されたままその後は触られずに最近に至った。とはいえ,〈湯坂〉が提示した問題については断片的ながら調査のしばしの間にいくつかの論考がなされた。その点では本書も,調査成果の概要をとりまとめ今後の研究に資する存在に過ぎないのだが,これらは未知なる〈湯坂〉を理解しようとするささやかなアプローチであった。その経緯をとりまとめることも本県の研究史上に意義あることかと考え,それを概略的に記すこととする。