昭和32年

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 文献1.「湯坂台地発掘 ジョウ文中期の文化に裏付」 昭和32年10月7日付読売新聞夕刊。
(大田原発)栃木県大田原市教育委員会は去る3日から10日までの予定で金田地区湯坂の住居跡台地を渡辺竜瑞那須古代文化研究所長と辰巳宇都宮大学教授の指導で宇大,国学院大学生11名が参加,地元の協力を得て4カ所100坪の発掘を行なっているが,5日夕刻には湯坂道路(市道)の左側50~70センチ下から珍らしい〝排水こう(溝)〟のある住居跡を発見,大型土器7個分,大きいものは高さ45センチ口径30センチや煮炊き器,貯蔵器などをはじめヤジリ(鏃)打製石オノ,ツチイシ(槌石)石ナイフなどを発掘した。これらはジョウ文中期の初期に当る5000年前のものと推定された。
 この排水こうの発見はいままでジョウ文式初めの編年(年代)からするとジョウ文中期初めの千葉県阿玉(アタマ)台式と中期中葉後の加曽利E式の順序になっているが,この間に入るべき形式が1つあると見込まれていたものが裏付けされたものであり,おそらく考古学上あらたに〝湯坂式〟(仮称)が設けられるものとみられている。
 辰巳宇大教授の話「こんどの発掘で貴重な資料が得られた。つまりこの地域に住んでいた民族は原日本人であるジョウ文式文化人であることが判った。考古学者が長年捜していたジョウ文中期初めと中期中葉の間の年代が発見できたこ(とは…以下切り抜きを粉失)
 湯坂発掘に係る最古の文献である。調査で問題にした土器群を住居址の外輪にあったくぼみ(排水溝)をとり違えたのは取材した記者氏の責任であろうが,結節沈線など阿玉台式の要素を宿した加曽利EⅠ式類似の土器群を,阿玉台式から加曽利EⅠ式に至る形式推移のギャップを埋める過渡的な一形式として認知したいとする担当者の考え方が簡略な記事の中で忠実に伝えられている。この〝過渡形式〟は土器の先後関係という縦方向の編年観にもとずくもので,当時の既存データから見て当然の考え方ともいえた。
 文献2.「大田原市湯坂遺跡調査メモ」渡辺龍瑞 史友8号 宇大歴史研究会 昭和32年12月 ※全文を別項(第Ⅰ部)に掲載
 調査直後に公表された概要を記したものでは唯一の文献。公刊された報告書はないが,渡辺氏自身は記録写真を添えて手書きの報告書を大田原市教委宛提出しているのでそれが公式報告書となるものであるが,記録写真アルバムを残して,文書とネガは3度にわたる移転中に粉失(または廃棄処分)している。この中で
 ① 湯坂遺跡の所在する丘陵を「白旗丘陵」を仮称すること
 ② ピット(土壙)の性格
 ③ 第1号住居跡からクルミや山栗の炭化物が出土したこと
 ④ 新型式「湯坂式」の設定が可能なこと
 ⑤ 第1号住居跡の上屋復元を含む遺構保存の計画が進んでいること

 などの指摘が注意される。②,④は別項に扱うとして,③の現物は既になく,⑤は埋め戻されたまま現在に至っている。掲載紙がタイプ印刷のガリ版刷りであるため写真・図面等が載せられず筆者の意を尽せなかった点が多々あろうかと今に惜まれる文献である。