昭和34年

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 文献5.「湯坂の土器―縄文中期の一変態的様相」 海老原郁雄 宇都宮大学昭和33年度卒業論文 昭和34年1月
 未公開の私的な文書であるので文献として掲げるのもどうかと考えたが,〈湯坂〉を考える一ステップにあるので敢えて提出した。遺構の概略的な状況や図は稿中の「4.栃木県下の中期縄文式遺跡の発掘調査 (1)湯坂遺跡発掘調査概況」より転載・引用したもので,野帳・渡辺氏の市教委宛報告書などが粉失した現在では当時の状況を示す稀少のものとなった。「5.県下に於ける阿玉台式と加曽利E式との相関関係」で,T1-Ⅴ区の土壙について
 堅坑自体がどの様な意味を以って作られたか,単に貯蔵的な意味を持って作られたものか,もっと飛躍して呪術的な意味を持って作られたものか即ち宗教的な目的を以って作られたものか,現在の処では断定は下せない。而して(中略),何等かの目的を以って多量の土器を埋納したものであるらしい。出土土器片に大型なものが多く,完形品が可成り多いということから故意に埋められたものである(略)。
 として土器を埋納貯蔵した機能を主張している。この土壙内から出土した多量の土器を
 阿玉台式の新形式と認められる土器群と,縄文と特有の刺突沈線とによって特徴づけられる湯坂第四類土器と,加曽利E式の古形式が東北の大木8式を伴って,これら全部が共存していたという事実(略)
 にもとずいて,「湯坂第4類土器」(大木8a式と阿玉台式との合の子のような土器)を問題にして〈これが阿玉台式と加曽利式との交代期に示現したグループで過渡形式として〉成立したものであろうと推定し,その編年的な位置を
       阿玉台Ⅱ式
 阿玉台Ⅰ式→湯坂第4類→加曽利EⅠ式
       加曽利EⅠ式
 のように推定している。形式の推移を段階で割りきらず,先後の形式に重複期間があり,その原因に文化圏伸縮の動きが存在すること考慮した試案であった。
 この卒論作成に係り収集した県内の縄文中期遺跡出土土器をさらに検討して試案を煮つめていきたかったが4年ほど北海道に就職したため果せなかった。手許の資料をもとに小稿をまとめたのが文献7である。