昭和37年

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 文献7.「栃木県北部における2,3の縄文中期遺跡」 海老原郁雄 下野史学第14号 下野史学会 昭和37年10月
 大田原市金丸小学校所蔵の湯坂遺跡出土と伝えられる「阿玉台式と思われるが器面の全面に地文として縄文を施し」た土器を紹介している。県内の中期土器について
 阿玉台式には
1.繊細な列点文,剌突文をモチーフとし多量の雲母を含むグループがある。

2.粗い爪形文,刻目文のグループがある。

3.2の中には殆んど雲母を含まない勝坂式類似のものがある。

 加曽利E式には
4.所謂加曽利E式の中に大木8式,及びその要素をもつと思われる土器が存在する。

5.層位の相対関係が確認されていないが阿玉台・加曽利E両方のテクニックをもつものが存在する。

(略)栃木県北部に於ては阿玉台式の手法がかなり強力に加曽利EⅠ式の手法に影響を与えていること―写真の3,4(南那須郡曲畑(そりはた)出土土器。注,前出の湯坂第4類に該当するもの)は阿玉台式の手法上の伝統が加曽利EⅠに存続したものではないか―。広範な加曽利E式文化圏の成立期に於て,奥羽南部の大木系文化圏との接触がみられた(略)。
 いい方を変えると,問題の〝合の子土器〟(湯坂第4類)は加曽利EⅠ期初頭に位置づけられ,その成立要因に大木8式の影響が認められる,とする見解を表明したものであり,かなり焦点が絞られてきたといえる。