湯坂遺跡調査に係る正規の概報で,本文24字詰181行・写真5葉・図版1葉を以って,遺跡立地・調査動機・調査概況・出土遺物・考察等を述べたもの。当時の年報は発刊が遅れているので,この原稿は昭和33年かそれに近い時期に執筆されたものと見られるが結果的には昭和38年に公表された形となった,その中で土器については
分類してみると,
(1)阿玉台式の新しい方に比定されるものが主体をなし,
(2)奥羽の大木7b式の新型式比定土器これにつぎ,
(3)勝坂式の新型式比定土器少量あり,
(2)奥羽の大木7b式の新型式比定土器これにつぎ,
(3)勝坂式の新型式比定土器少量あり,
これらはまったく層位差を見せず混出しており,しかもT1-5区の大型フラスコ型ピットや,第1住居址上層からはセットをなして出ており,それは,互いに同一時代を物語っている。(略)要約すれば,本遺跡・遺物の示すものは,中期前半から後半への過渡期の様相を示すようであり,具体的には,阿玉台式から加曽利E式への移行の一時期を示すものと思考する訳である。
として,阿玉台式と加曽利E式との技法的上の不連続を補填する〝仮称湯坂式〟の存在を積極的に考える立場をとっている。それは調査直後に表明した前出の文献1や文献2における見解を一貫して継続するものであり,この文献に準拠して執筆されたと思われる文献12に至るまで変っていない。抄出文中の(1)~(3)は文献3でT1-Ⅴ土壙出土の土器群の組成を分析した内容と類似しているが,もしこれと関係があるなら,既述の通り「大木7b」としたのは「大木8a」の誤りであるので,この間に誤認訂正の見解を公表していない点から誠に罪深い元凶だといわねばならない。
以上の状況が発掘調査とその後の整理作業に係りながらの見解で部分的には直感的・感覚的な表現がなくもないし,他との実証的な比較検討を欠いてはいるが一応の〝戦後処理〟段階を終えての区切り目とすることができる。そこでこれまでを研究史の前半とし,以降を後半部分と考えたい。後半期は〈湯坂〉の歴史的位置づけと〝横軸〟を考慮しながら中期編年の実像を模索していく段階である。