文献9.「栃木県湯坂遺跡調査報告(縄文中期)」 海老原郁雄・田代寛 単行印刷 塩谷郷土史館 昭和39年12月
湯坂遺跡の第2次調査(昭和38年11月22日~24日)で辰巳四郎宇都宮大教授・塙静夫作新学院教諭を中心に宇都宮大学生ら同志と計10名で実施した〝持ちこみ参加〟の自費発掘である。飯のお菜は当時新発売「スキヤキふりかけ」であった。
これまで考え続けてきたこと実証するにはやはり同じ湯坂遺跡でなければならなかった。「阿玉台式の或るグループと加曽利EⅠ式の或るグループとが層位的に共存するか確認してみたい」切望から出発したのだが,トレンチの設定位置が悪く期待した収穫が上げられなかった。それはともあれ,この文献では,遺跡立地について田代寛氏による地形・地質学上の論考が加えられている点が特記される。この中で,湯坂遺跡の占地する丘陵(白旗段丘。渡辺氏の呼称は白旗丘陵=文献2)は那須野が原扇状地における残丘で地層の分析を通じて成因に触れながら,遺跡立地は「微地形的に見る,段丘頂が段丘崖に移化する地域,即ち傾斜変換線の近く」であることが指摘され,はじめて先史地理学の分野からのアプローチが試みられたのであった。
調査で袋状土壙1基(ローム中の開口部=90×115cm,深さ=80cm,底径=160×180cm)が見つかり阿玉台式期に伴う所産と確認したものの,「50片程の土器片が散発的に出土した。同じ個体が殆んどない」状態が投棄乃至漸移埋没であることを看破できず「実験によると中背の男子が膝をやゝちぢめて仰臥できる程度であった」など暗に墓壙機能を述べている。袋状土壙は昭和41年に第3次坊山遺跡発掘調査で群在することが確認されて以降県内各地の中期遺跡調査で類例が続々検出されたことから昭和40年代における焦眉の問題として俄にクローズアップされていくのである。
文献10.「鉢木遺跡の袋状土壙」田代寛 単行印刷 塩谷郷土史館 昭和43年11月
―栃木県那須郡黒羽町鉢木遺跡の袋状土壙とその諸性質,とサブタイトルがついている。鉢木遺跡の調査は昭和42年10月実施されたもので,検出された都合6基の袋状土壙の研究と共に筆者が従前の類例報告・論文等を収集し,土壙に対する見解を整理して研究方法上の立場からの批判を加えており,袋状土壙研究の姿勢を問い直した画期的な文献。筆者の指針を確立すると共に,県内においても以降の研究者に示唆と影響を与えた。
湯坂第2次調査に伴う土壙の前出文献9に引用した墓壙機能の暗示に対して
かような一連の暗示法をつきつめてみると,土壙の性質とは游離した勾いであり,人間を入れれば入れられるという,ムードとスペイスに拠点を有しているに過ぎない。(略)それ以前に土壙を墓と考えるための土壙諸性質を組み立てる論理・努力の一切を欠いている。
と指摘している。まさにその通りで,これを機に曖昧な墓壙論議は影をひそめるのだが,土壙の機能自体は依然不可解のまま時が移るのである。