文献11.「栃木県北部にみる縄文中期土器の変遷」 海老原郁雄 研究集録きざし3号 栃木県立宇都宮中央女子高校 昭和48年3月
湯坂遺跡出土資料にもとずき,加曽利E式成立期における地域的現象として〈湯坂タイプ〉を,「移行期における〝技法上の混乱〟」として促えようとしている。大木7b式以降の古式な器面装飾の一要素であるS字文を持つ土器を大木8a式でなく大木7b式自体と誤認したことから,かって文献3で湯坂第4類土器群を〈大木7式土器と阿玉台式の新式の接触形式であろう〉とした考え違いを訂正すると共に,T1-Ⅴ区の土壙出土の土器群を「5(=第125図)は阿玉台式の新式,6(=第124図)は勝坂式の要素をもった阿玉台式,14(=第134図)は阿玉台式の要素をもった大木8a式である」と分類して,既述の〈合の子〉土器が形式較差の中間を補填する〝過渡形式〟ではないことを明示したものである。換言すればこれは県下の加曽利EⅠ式土器群において大木8aが最も先駆的に出現することを,湯坂T1-Ⅴ土壙出土土器群の共伴関係にもとずいて論証しようとするものでもあった。この土壙が〝密室〟状態にあったため発掘当初から出土土器群の共伴には物証があったのだが,これら土器の個性がそれぞれ強烈であったが故の混迷とでもいえようか。包含地遺跡にあっては層順判定が難しいが,土壙内出土の土器は共伴関係立証の手段として好条件を備えていることを再認識させた初現的な事例であったのである。