(2) 土器群の個体差

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 阿玉台式と加曽利EⅠ式との間には,器形・施文技法・装飾文様(モチーフ)等において断絶があり,その移行を滑らかにするには中間を充たす〈移行形式〉の存在が必要である――とは調査以前から考えられていたことであった。両者を較べたとき特徴上の〝断絶〟があることは今も変らないが,〝断絶〟のある原因を両者がそれぞれ別系統の土器でなく,調査当時は一本の流れとして生々発展して次の形式に移るという見方,つまり阿玉台式に「原加曽利」を求めたのであった。従って,当土壙出土の土器群を特徴から
 阿玉台式や勝坂式に似たもの
 加曽利E式の古い方に近いもの
 奥羽の大木8a式に似たもの
 而もそのどれでもないもの
(前出文献2)

 
という個体差をもった土器の組成は,その出土状態が〝密室〟であり(既述のように漸時投棄の疑いもあるが)これらが共存する条件を具備しているため「個体差」が生じた正当な理由づけが要請されたのである。換言すれば共存という条件枠をはめられた形式(または系統)別に分類できる土器群が編年上の一断面において歴然として存在する事実をどう解釈するか。これが〈湯坂〉が提示した問題であった。さらに的を絞れば,移行期における現象であることもはっきりしていた。結局,形式移行における過渡的な形式(阿玉台式,仮称湯坂式,加曽利EⅠ式の順に形式変遷する)として促えるのか,それとも現象(阿玉台式末期と加曽利EⅠ式初頭期との交錯による様式変化)とみるのか,という問題に帰結される。それは〈湯坂〉的な事実が,加曽利EⅠ式に先行して在るのか,それとも伴って起るのか,という時期と土器の文化的系統(テリトリーの動静に係る現象)とに関連する問題でもある。かくして,勝坂式と大木系土器との栃木県に及ぼす影響力と相関性については今なお不透明部分が多い重要課題となっているのだが,それはさておき当土壙出土土器の組成を検討すると
 阿玉台(新)式
 ア 終末相の阿玉台式=地文に縄文を施し隆線に角押文を伴わない,隆線自体に角押文(刻み目文)や縄文を施すもの,など
 イ 勝坂式の要素を加味した阿玉台式=渦巻文のモチーフをもつ隆線,キャタビラ文区画帯内の三角文・鋸歯文(沈線)を伴うもの,など
 大木8a式
 ウ 阿玉台式との折衷的な8a式(合の子)=地文に縄文を施し渦巻文・鋸歯文をモチーフとする浮文や把手などに結節沈線を伴う。縄文に縦の無施文部が併列しているものが存在することは注意される
 エ 大木8a式=口縁部の突帯にS字文・8字文を貼付,隆線の背に刻み目(指圧痕,ヘラ押しなど)を施す。縄文に縦の磨消痕(または無施文部分)が併列する事例が目立つ。
上のように目立つ特徴によりア,イ,ウ,エの4タイプに大別される。実際には,アとイ,ウとエはそれぞれ明瞭に分離しにくい相似点もあって大別するための尺度と考えた方がよさそうであり,前者にあってはイが,後者にあってはエが主流である。しかしイとエとは相互に関連性を持たない異質の土器であるので,両者の間に時間的な重複があったにせよ系統を別にする二つの土器形式群が併存するということは編年上きわめて異例なことだといわねばならない。ウとエとは同じグループの土器である。それなのにウが生じたのは土器製作に携わる工人の在り方に差違があったことに起因するのかも知れない。この土器群を大木系土器の北関東圏浸潤に伴う〝接触様式〟と仮称したのだが,同様現象は他の地域にも認められるのか否か。単なる局地的現象にとどまるのか,同様に局地的現象が起っている地域があればそこにおける土器の組成はどうか。それを究明していくことは加曽利EⅠ式成立の実態に迫ることであり,その発生源を求めていくことにつながる。〈湯坂〉における個体差をもった土器の組成は抽象的にはこのような中期中葉における汎縄文文化圏の成立に係る本質的な問題を提示していたのである。他に考慮すべきことは勝坂式の影響である。阿玉台(新)式段階に勝坂式の要素が客体として宿っていくのであり,阿玉台式の要素と調和・融合して〈新〉段階を形成する。これも〝接触様式〟と考えられる。前述のように,対峙的ともいえるイとエとの在り方において,勝坂式の要素をもつ大木8a式は見られない。即ち,最終段階における阿玉台式は勝坂式との調和・融合を遂げた時点で消失し,新たな大木8a式と交替するのではないか――とする仮定である。その意味で,勝坂的な要素は阿玉台式の終末を限る示準的存在であるともいえる。下の表はこれらの条件をもとに土器形式の編年を図式化したものである。かくして土器の様式にみられる差違の在り方を一般化して促える必要があることを〈湯坂〉の土器群は問題として提示したのであった。

湯坂遺跡の土器編年における二つの接触様式