2.中期土器の大別と細分

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 本県で報告されている縄文中期土器の合計数ではかなりの事例に及ぶが,時期的には僅少例しかない初頭と最終末期に対し,中葉はきわめて事例が多く,遺跡数の増減を反映した結果とはいえ研究資料としてはいささかアンバランスな状況にある。これらの土器群は関東編年で分類されているが東北南部の編年に対比させた方が理解しやすい面もある。それは単なる編年上のとらえ方によるものではなく,実際に東北南部と密接な関係をもつ土器が多いからである。現在のところ考えられる対比の試案は別表(62頁)の如きものであるが,その変遷の大略は
 1.下小野・五領が台期は那須地方を中心に二,三の遺跡で土器が見つかっており(注1),他にも報告事例はあるが(注2),その実態を考究するほどの資料集積をみていない。
 2.阿玉台期は前半の古手の時期と後半の新手の時期に大別され,前者に大木7bが後者に大木8aが伴う。この古手は少くとも二細分する必要があり,そのうち先行する一群には大木7bが伴出するが,後行する一群についてもそうなのか否かはよく分らない。後半期は遺跡数が非常に多く加曽利E式まで連続している場合が珍らしくない。後半期に位置づけられる阿玉台が大木8aを伴出するのは,形式移行期に時間的な重複があったためだが,この段階の土器群が両形式の複合によって構成されていたという意味ではなく,あくまで後半期の阿玉台式は前段階からの延長上に明確に存在しており,何かの事情で現象的に大木8aを伴ったものである(注3)。
 3.加曽利EⅠも前半期と後半期に細分され,前者は大木8aに後者は大木8bに対比される。ここでいう加曽利EⅠは関東タイプの土器という意味で,東北タイプの大木8aのうち初現的な一群はこれに先行するもので関東的な加曽利EⅠには含まれない。初現的な一群は阿玉台終末期に対比される。これに後行する大木8aは二細分が考えられるが,これらが加曽利EⅠに対比される。後行するとは連続的に発展してそれに至るという意味ではない。後行する大木8aはもちろん阿玉台を伴出しないが,初現的な一群とはその組成を異にし関東タイプの加曽利EⅠ式として定着し展開する息の長い土器群としてとらえられる。つまり,当地方における大木8aは初現的な一群だけは異質で以降の土器に連続しないが,以降の土器は土着化しつつ関東タイプに変貌していくのである。三細分される大木8aの後半の二段階を経て大木8bに対比される時期に至り当地方の加曽利EⅠは関東タイプとして形態を完成させる。大木8b対比の土器群は東北地方におけるそれと共通要素をもつが,南関東地方のものと共通する要素を一般的にもつようになり,大木8a対比の段階であらわれた〝外来的〟な特徴に代って〝在地的〟な特徴を具備するようになる。
 4.加曽利EⅡ,Ⅲの展開は大木8b対比土器の延長上に連続的な変遷としてとらえられる。加曽利EⅡには大木9a,EⅢには9b,10aが対比されるが,この連続した流れにおいて基盤となる特徴は,器形=キャリパー状深鉢の退化型を示す滑らかな曲線に特徴づけられる深鉢形,文様=渦巻文の退化による円形・楕円形の口頚部区画文と縦位の磨消縄文を基調とする胴部文様とによって構成されるもので全体的には上下の区画文を対置させたタテ割り構成の文様,である。EⅢの前半段階における大木9b対比の土器群は〝H状文〟や〝ステッキ文〟など福島県の資料に共通するものがあり〝在地的〟ながらも東北方面との関係をもっているが,後半段階の大木10a対比の土器群は目下のところ明瞭ではない。南関東で加曽利EⅣとする両耳壺など「関東タイプ」の資料に散見できるのだが,そのセット資料をとらえていない(注4)。予測としては,中期最終末から急速に大木系文化圏が縮少しはじめて大木的色彩の退潮現象が起ったのではないか,と見る。
 5.大木10の後半段階には既にこれに対比される加曽利Eは存在せず,その間隙を次の堀之内Ⅰの成立までの短い間,称名寺が埋める――と理解するのである。
注1.那須町伊王野地内の木下遺跡,何耕地遺跡,海老面遺跡や,黒羽町両郷地内のカイソンザワ遺跡。
 渡辺龍瑞 古代下野文化の地域的性格 下野史学11号 昭36年5月
 中村紀男 北関東における中期初頭の縄文土器 考古学手帖24 1964.10.
注2.矢板市下伊佐野地内の雲入遺跡。
 海老原郁雄 栃木県北部にみる縄文中期土器の変遷 きざし3号 1973.3.
 宇都宮市荒針町地内の上の原遺跡
 五十嵐利勝 栃木県姿川流域の考古学的調査 下総考古学5 1973.11.
注3.梨木平遺跡(第4次)調査報告書 上河内村教育委員会 昭50年3月
注4.海老原郁雄 栃木県の加曽利EⅢ式の大別と細分 きざし4号 1975.3.