3.加曽利EⅠ式の変遷と「湯坂」の位置

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 栃木県内の阿玉台式のうち,古手に比定されるのは矢板市・石関(彦左ェ門山)遺跡の第1号住居址の土器と,黒羽町・不動院裏遺跡の第9号袋状土壙出土の土器である。「石関」は口頚部に屈折する2本セットの結節沈線を廻らせた甕形土器・口頚部に2本セットの屈折する2本セットの結節沈線を廻らせ胴部に爪形文を廻らせたキャリパー状深鉢土器・口頚部に縄文原体の圧痕文を何条か廻らせた深鉢形土器を組成としており「区画文」をつくらない。「不動院裏」は隆線で区画帯をつくり内側を3本セットの結節沈線で区画文を描くキャリパー状深鉢・口頚部から胴部に何段か爪形文を廻らせたキャリパー状深鉢を組成としている。両者ともに,余白部に縄文・櫛引文等による器面装飾を行わない点で〝先行〟的であり,勝坂式の要素を含まず,大木8a式を伴わない点でも古手に比定される。「石関」は大木7b式を伴出するが「不動院裏」は不明である。区画文構成の有無をひとつの示準と考え,「石関」を先行,「不動院裏」を後行としたが大木7b式との関係は明確ではない。矢板市・坊山遺跡の例でも大木7b式は検出されており恐らく古手の二段階には両者とも伴出するであろう。
 「湯坂」は,新手の阿玉台式=ア121~123及びイ124・125と,大木8a式=ウ137~139及びエ133・135との組成をもつ。アは終末相,イは勝坂式との接触様式,ウは初現的,エはその接触様式である。新手の阿玉台式は勝坂式の要素を濃厚にもち初現的な大木8a式を伴出する点で特徴的であるが,それらは勝坂式そのものを組成とする可能性も強く(湯坂遺跡出土と伝えられる金丸小学校所蔵土器,後述の「弁天池」),「勝坂式の要素」は新手の阿玉台式を識別する示準となるものである。大木8a式の確立期の土器には勝坂式の要素がほぼ消滅することからもこの示準はきわめて特徴的な事実として認識されるのである。
 137~139は口頚部の凸帯文を文様主体とする〝東北直伝〟タイプで133・135などを組成とし,深鉢や頚部のくびれた甕形など各種の器形を呈しキャリパー状器形が具現しない。文様はS字文をモチーフとし,沈線や沈線を伴う細い隆線で描かれ,それは殊に胴部文様に特徴的である。阿玉台式の残影的技法として,隆線の背に縄文をつける,結節沈線が多用される,などが注意されるが,阿玉台式のキャリパー状深鉢や文様構成などの基調は失われ,この初現的な大木8a式には継がれない。宇都宮市高尾神遺跡の第3号住居址出土の土器(156~162)の7個体の組成はその内容に会津地方と共通する要素を含む初現的な大木8a式のセットとして注意される。内容的には,口頚部が内弯し頚部がくびれ胴部がふくらむ大型甕形土器=156・157,胴部でくびれ口頚部と胴部がふくらむ中形深鉢形土器=160・162,上半部が直線的にゆるく外反する中型深鉢形土器=158・161,口縁部にデコレーションをつけた大型甕形?土器=159,がある。このうち156・157は〝東北直伝〟と考えられる土器で,前述の「湯坂」ウ=137・138・139に伴出するものであろう。156は隆線の背に縄文施文,157はくびれ部上下に半截竹管文を廻らせるが,後者は次の段階の土器にもまで継がれる。161はヘラ描き沈線で3段に文様帯を構成するもので,縦位の短沈線と渦巻文を組合せており〝会津的〟。159の渦巻文をデコレーションとする大型土器も会津の大木8a式のうちでは恐らく古手の段階におかれるであろう土器である。160・162は地文施文においてきわだって対照的である。162は地文が綾杉状で異種原体を交互に縦転して施文しており「湯坂」の同種の技法をもつ土器の仲間に含められる。一方,160は地文が撚糸文で,口縁部凸帯の背に刻み目を施すなど勝坂式の要素をとどめている点で注意される。160は他の土器とは異質的な南関東の流儀を汲む土器なのではないかと考えられる。初現的な大木8a式にみられる「綾杉状縄文」と南関東の古手の加曽利EⅠ式にみられる「撚糸文」とが併存する例証である。この撚糸文を地文とする〝関東タイプ〟の加曽利EⅠ式が終末期阿玉台式と共伴した事例が小山市不動原南遺跡出土の土器(163・164)である。撚糸文を地文とする164は,口頚部がゆるく外反する深鉢形で,渦巻文をモチーフとする口頚部文様と3本セットの沈線で屈折文を描く胴部文様との2段構成で,胴部文様に大木系の要素を認められる。南関東流儀の撚糸文を地文とする土器が,小山市と宇都宮市とにおいてそれぞれの組成によって,「湯坂」に対比され得ることはきわめて興味深い事象である。加曽利EⅠ式の初現的段階に勝坂式の要素を宿した土器が宇都宮付近にまで進出し(氏家町ハットヤ遺跡出土資料=勝坂式的な把手をもつ大木8a式土器写真34)ているのに対し,県北の那須方面では初現的段階では〝東北直伝〟タイプの土器に席捲されているとする予想が成立し得るからである。このことは次の本格的な加曽利EⅠ式の成立を考察する上に示唆に富む問題を提起している。成立要因やベースに差違があったとすれば複雑な揺籃期の加曽利EⅠ式の在り方を例証する事実をまたひとつ収穫したことになる。芳賀町弁天池遺跡出土の土器(167~169)は,阿玉台式の残影をとどめる大木8a式に勝坂式(167)が伴出した事例である。167は台付鉢形土器で,口縁部に蛇体装飾をもつ土器で稀少な出土例である。益子町山居台遺跡出土の土器(170・171)は,きわめて阿玉台式的な大木8a式(170)を伴っている点で注意される。170は頚部がくびれ口頚部が外反する甕形土器で,口縁部に楕円状の凸帯をつけ,これに横帯文を連結するなど阿玉台式の要素を濃くとどめるが,鋸歯文・渦巻文を組合せて器面装飾を行ない,地文に撚糸文を施すなど初現的な特徴をもっている。この土器は阿玉台式と大木8a式の「合の子」であるが,残影型というよりはむしろドッキング型接触様式と理解される事例である。「弁天池」も「山居台」も,口頚部が外反する深鉢形でキャリパー状になりきれない器形のS字文を主文とする土器に,一方は勝坂式,他は阿玉台式の接触様式が伴出したことで,大木8a式のセット資料としては初現的な段階に位置づけられる。このような示準を伴わないが湯津上村片府田遺跡出土の器(165・166)もヘラ描き3本セットの沈線で渦巻文・屈折文を施したもので,166の口縁部の凸帯文や頚部でくびれた甕形の器形等の特徴から初現的段階におかれる。
 以上のように「湯坂」に対比される大木8a式の初現的段階の土器には,「高尾神」「乙女不動原南」「弁天池」「山居台」「片府田」があるが,これらの特徴を次のように整理することができる。
 1.器形。口頚部が直線的に外反する深鉢形土器と,頚部でくびれて胴部はふくらむ甕形土器とが主流。前者はキャリパー状を呈さない。
 2.文様。口頚部か口縁部に2条の凸帯を廻らせS字文や角形の凸帯をとりつける。胴部文様は特に甕形土器において2~3本セットのヘラ描き沈線で渦巻文・角状の屈折文を胴上半部(くびれ部からふくらみ部分にかけて)に施す。区画文をつくらない。
 3.技法。貼付する隆線は細く両側に沈線を伴う。隆線の背に縄文を施したり,沈線が結節化する。雲母混入は一般的。地文は異種類の縄文原体を交互に縦転ししたり同原体で等間隔に間をあけて縦転ししたりするものと,撚糸文を全面に施すものとがある。
 4.伴出土器。一般的には終末期の阿玉台式。稀に勝坂式。接触様式は阿玉台式流儀。
 5.地域差。県北は東北直伝的,県南は南東的要素(勝坂式起源の要素)を含み一様に律しきれない。器種・文様とも多様である。
 6.編年上の位置。三段階に区分する大木8a式の初現期で,阿玉台式終末期に重複し関東の加曽利EⅠ式に先行する。

 
 以上,萌芽期の加曽利EⅠに代って大木8a式第2段階の土器は確立期といえる。阿玉台式・勝坂式を伴出することがなくなり,技法的にも〝残影〟等の影響が払拭され大木8a式が単独に具現して本県としての加曽利EⅠ式が本格的に確立していく時期である。この段階の資料としては,上河内村梨木平遺跡出土の土器(176~178),小川町浄法寺遺跡出土の土器(172~175),大田原市平林西遺跡出土の土器(185~188),矢板市坊山遺跡(参考資料写真)などが上げられる。これらの土器における特徴は,キャリパー状深鉢形の確立と口頚部への文様の集約化である。「梨木平」の176は大木8a式の示準であるS字文を主文様とし胴部文様は省略化の傾向が著しい。如何にも加曽利EⅠ式らしいスラリとしたプロポーションをもち,前段階の口縁部の凸帯文や胴部の錯綜した入組的な文様は整理されて4単位に文様帯を縦割りしたすっきりした土器になる。これが大木8a式の本流を汲む土器の姿で,その斉一化現象により確立期における本来的な存在を示すものと考える。178にみられる剣先文はこの時期になって出現する新しい要素として注意される。しかしながらこの段階において主体的な位置を占めるのは「浄法寺」「平林西」等の口頚部に巨大化した把手と渦巻文をモチーフとし彫刻的な重弧文や曲線文で文様部分を隙間なく装飾した土器である。「浄法寺」の172や175~「平林西」の185・186・188はその典型例で,この手の土器が本県の加曽利EⅠ式前半の土器として敷衍し,その影響は大木8a式の第3段階に対比される土器(例えば竹下遺跡出土の土器,189・190と伴出したもの。図版に集録せず)にまで及ぶ。「平林西」の組成のうち187はこれらとは異質の関東タイプとして土着化しつつある土器で,華やかな「浄法寺」タイプ一色に塗られた訳ではなく徐々に関東タイプが確立している状況を示している。「浄法寺」タイプと共に半截竹管文で器面装飾をする土器が現われる。矢板市坊山遺跡出土の土器(参考 写真33)で,口頚部は渦巻文に半截竹管文を添わせて隙間なく文様を充填し,胴部は同心円状に弧文を描いた文様で充填する。このような半截竹管文を用いるものと前者のようにヘラ描きのものとの二種があるが,これらの土器は前段階からの流儀を継いだのではなくきわめて北陸的な土器で,既に前段階の時期から同じテリトリーに属していたため,会津に起った〝異変〟に同調して生じた現象であろう。その〝異変〟とは馬高式の浸潤と土着化である。半截竹管文やヘラ描き沈線の重弧文的装飾は初現的段階における文様構成や技法とは全く性質を異にするもので,ここに本県における大木8a式の初現期と確立期の土器に画然たる断絶を認めることができる。この北陸系の土器は波及の末端的な現象として現われるので,時期的にも遅く技法的にも「火焔」を失ってかなり変形した形で見られるが,西那須野町槻沢遺跡の出土土器には「火焔」の片鱗をとどめるものがあり,必ずしも会津圏の辺地ではなく同じテリトリーに属した故の現象であるといえる。
 
 大木8a式の第3段階に対比される土器は〝会津圏〟を離脱して関東タイプの加曽利EⅠとして定着していく発展期にあたる。キヤリパー状器形が定着し,4対応する巨大な箱状把手をつけ,渦巻文・剣先文や鍵手状の屈折文などを口頚部に連鎖させての文様の集約化が著しくなり,胴部は地文以外にあまり文様をつけず重点をおかないようになる。この段階の資料としては,芳賀町金井台遺跡出土の土器(179・180),宇都宮市台耕上遺跡出土の土器(181・182),宇都宮市竹下遺跡出土の土器(189・190)などが上げられる。ボリュームのある箱状把手は5面に円孔があり179・181・189に見られるように規則的な4単位構成の文様基点となり土器自体も巨大化する。「金井台」も「台耕上」「竹下」も平縁または小波状の土器を伴い,キャリパー状器形が一般化する。文様帯は内弯する口頚部の上半部に区画線や無文帯を廻らせて集約し,スラリとした胴長の器形となる。この段階の示準となる箱状把手は前段階の北陸系土器には起源をもたず〝南関東系〟の,具体的には勝坂式に由来する古手の加曽利EⅠ式のそれと系統を一にするものであろう。ただし,前段階の「浄法寺」タイプのように異質的な現われ方をせずに,この箱状把手をもつ土器群は前段階以来の渦巻文・剣先文や退化したS字文を併用した〝合成〟タイプの土器であり,その意味で関東タイプの土着的様相を呈する安定期の一群として把握されるのである。この箱状把手は前述した「竹下」の重弧文土器には合成された形でみられるが,別に益子町境遺跡出土のセット資料(中村紀男=文末文献)をみると,北陸系の土器と共に箱状把手様の巨大把手をもつ土器とが組合せになっており,これらは第2段階に位置づけられるものと判断されるところから,箱状把手は「平林西」の185・188の如き状態で,第2段階に先駆的に出現(正確には伝播して合成される)し,第3段階においてメルクマール的存在に成長したと考えられる。いま一つ第3段階において注意されることは半截竹管技法が179・181・189のような箱状把手をもつ土器には見られないことで,北陸系の重弧文土器には併用されるが,第3段階では用いられないのが通例である。そして,180・182・187のように,口頚部上半に文様帯を集約させ隆線または沈線文で4単位に割りつけた区画帯に平面的な文様を規則的に展開させた土器群が源流となって,次の大木8b式に対比される土群の様相が展開されるのである。
 
 加曽利EⅠ式の後半期は大木8b式に対比される土器で,器形と文様構成において一般化・斉一化の傾向が強く現われ関東タイプとしての展開がみられる。流れるようなキャリパー状深鉢形の器形曲線が完成し,渦巻文を中心文様としたスマートな横帯区画文が口頚部上半に連鎖・集約して飾られ,以下の器面は地文だけか時には地文すら省略される。この段階の資料としては鹿沼市鹿島神社裏遺跡出土の土器(183・184)や氏家町ハットヤ遺跡出土の土器(セット資料ではない。参考 写真34),黒羽町不動院裏遺跡第17号袋状土壙出土の土器などが上げられる。「鹿島神社裏」の183はこの段階における示準的な土器で全県下に普及すると共に南関東にも共通する〝汎加曽利EⅠ式〟タイプとして盛行する。これと共に大木8b式に共通する要素は減少し,「不動院裏」のセットのように大木8b式そのものを共伴することはあっても,もはや東北的な影響(もちろん会津も含めて)下には置かれないシチュエイションを獲得する。これらの土器群には当然に遺跡の個性にもとずく特徴や相違が認められるが,加曽利EⅠ式の前半段階に現われたような対峙的な文化圏の違いによるものではなく,すでに広域的な加曽利EⅠ式のテリトリーが成立したことを物語っている。この段階から加曽利EⅡ式への移行は滑らかで時々として両者の識別に苦しむ事例にも遭遇する。その原因は磨消縄文技法の萌芽である。渦巻文が円型のくぼみに変形したり,胴部に縦引きした複数のヘラ描き沈線の間を磨消したりするものが現われる。一般的に加曽利EⅡ式の特徴は渦巻文が退化して小判形の区画文に変り縦位の磨消縄文帯が盛行する,等であるが,個々の土器ではその〝磨消縄文〟度の判別がつきにくいものがあり形式上の分離を困難にしている。形式変遷上の切れ目がないという証左でもあろうかと,自らの不明を慰めているところである。
 
  参考文献
1.縄文土器の単位とその意味(上),(下) 谷井彪 古代文化2.3 1979

2.坊山遺跡第二次発掘調査報告 海老原郁雄 昭和45年度県高教研社会科紀要

3.栃木県ハットヤ遺跡調査報告 海老原郁雄 塩谷郷土史館研究報告第1集 昭和39年12月

4.益子町境遺跡出土の縄文中期土器について 中村紀男 栃木考古学研究No.5,昭和39年9月

5.南会津郡松戸が原遺跡の阿玉台式土器資料 樋口弘一 福島考古19号 1978.3

6.考古学から読む「会津の縄文中期」 周東一也 福島民友新聞昭和53年10月7日付記事。

7.芝草原遺跡調査概報 小滝利意 西会津町教育委員会 昭和44年11月

編年試案
関東の変遷栃木県の変遷
関東一般の形式在地的な土器群の配列東北南部の形式
下小野・五領が台那須町・木下遺跡大木7a
阿玉台Ⅰ矢板市・石関遺跡大木7b
阿玉台Ⅱ黒羽町・不動院裏遺跡
阿玉台Ⅲ大田原市・湯坂遺跡大木8a
加曽利EⅠ小川町・浄法寺遺跡大木8a
宇都宮市・竹下遺跡大木8a
氏家町・ハットヤ遺跡大木8b
加曽利EⅡ大田原市・長者平西遺跡大木9a
加曽利EⅢ烏山町・泉遺跡大木9b
加曽利EⅣ佐野市・北の内遺跡(大木10a)
称名寺上河内村・古宿遺跡

 追補:在地的な土器群の項の報告文献名,カッコ内は報告者
那須町・木下遺跡:栃木県那須郡伊王野村木下遺跡調査報告(渡辺龍瑞)昭29年6月
矢板市・石関遺跡:石関(彦左ェ門山)遺跡(海老原郁雄)昭54年3月
黒羽町・不動院裏遺跡:不動院裏遺跡(田代寛)昭49年3月
大田原市・湯坂遺跡:本書
小川町・浄法寺遺跡:未刊(橋本澄朗・初山孝行)
宇都宮市・竹下遺跡:栃木県清原村竹下遺跡発掘調査報告(塙静夫)昭29年3月
氏家町・ハットヤ遺跡:栃木県ハットヤ遺跡調査報告(海老原郁雄)昭39年12月
大田原市・長者平西遺跡:長者ケ平西遺跡調査報告書(山ノ井清人)昭50年3月
烏山町・泉遺跡:泉遺跡発掘調査報告(海老原郁雄)昭50年3月
佐野市・北の内遺跡:54年度報告書作成中(川原由典 岩上照朗)
上河内村・古宿遺跡:未刊(岩上照朗・木村等)