栃木県における加曽利EⅠ式の発現と展開について各段階の示準的な土器の消長を整理してまとめとしたい。
大木8a式の初現的段階=大木直系の土器が伝播。口頚部が直線的に外反する深鉢(口縁部に凸帯を廻らせるのでハチマキ深鉢と略称)と,頚部がくびれた甕(くびれ部に半截竹管文を押引き。くびれ甕と略称)とが主体。
大木8a式の第2段階=口頚部が内弯するキャリパー状深鉢器形が確立。ハチマキは消失するがくびれ甕は存続する。ヘラ描き沈線・半截竹管文を併列させて器面を彫刻的に隙間なく装飾する北陸系の土器が盛行する。文様帯が口頚部に集約し,加曽利EⅠ式としての体裁を整えるが,勝坂式の系統を汲む南関東タイプも入りこんでいてまだ〝多様化〟時代。各要素の合成化が進行する。
大木8a式の第3段階=箱状把手が盛行し諸要素が合成される。北陸系の土器は若干残存する。渦巻文・剣先文を主文様とするキャリパー状深鉢形土器が出現する。
大木8b式対比の段階=渦巻文を中心とする横帯区画文をもつ流麗なプロポーションをもつキャリパー状深鉢形が主流となる。斉一化傾向が強まり,テリトリーの差違にもとずく要素の尖鋭的な反映はなくなり,特に大木的な影響を離脱して関東タイプとしての在地性が確立する。
栃木県が,とりわけ県北は関東地方と東北地方の接触地域にあるため当地方の縄文土器はその時その時で様々な両文化圏の影響をうけている。「湯坂」における全く先・後の関係にある土器の共伴現象を理解するには各遺跡の土器を広域に資料探訪し系統的な角度から検討することが必要であった。そしてそれは唐突ともいえる大木8a式の浸潤に戸惑いとためらいをもって文化的な変容に対応していった揺籃期の加曽利EⅠ式期の一遺跡の有様を浮彫りする現象であったと共に,同じころの他の遺跡においても状況に違いこそあれ同様の現象が起っていたことが分かり,多様で複雑した当該期の「揺れてる加曽利EⅠ」の様相を看取することができたのであった。「中峠」も〝原加曽利〟も「三原田のカッパ」も大局的には揺籃期における局地的現象である。その意味で本書「湯坂」がこれらの著名土器群に伍して編年上に寄与するところがあれば一同の望むべくもない喜びといわねばならない。いささか接触地域における加曽利EⅠ式の変遷を追って外来的様相から土着的な関東タイプとして定着していく過程を概観してみた。先学の御批正を乞い願う次第である。