あとがき

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 「湯坂の縄文土器2個が有形文化財として3月末日付で市指定告示になりましたよ」
 益子孝治氏がニコニコ顔で云った。
 「そうですか,それはどうも」
 私はそう云いながら少し照れていた。自分が勲章を貰ったわけでもあるまいし――と思いながら2個の土器(124・125)を脳裏に浮べた。昭和54年4月27日。市町村文化行政主管課長会議閉会後のひととき。ホテルたかはらの窓外には鬼怒川温泉名物の目にしみるような新緑を霧雨が優しく濡らしていた。
 ――あれから22年も経った。その報告書がやっと公刊される時にあの土器が有形文化財指定になったというのも何かの縁であろうか。発掘当初,「湯坂の土器」はその奇妙な取り合わせの故に衆目を集め,類似の遺跡調査が進むにつれて重要性が認識されはじめいつしか北関東の代表的な示準遺跡になっていた。この発掘を契機に考古学に志し,私は『湯坂の土器―縄文中期の一変態的様相』のタイトルで卒業論文を書いたがかえってナゾは深まり自らの非力を思い知ったのだった。正報告を早く出さなければ―焦る気持のままに年月が過ぎた。20歳のころ共に発掘した仲間は各地へ散り既に40を越えた。当時の大田原市教委事務局にもいつしか故人となられた方々が増えたことに時間の流れを強く感じた。栃木県にいてこの発掘に係った考古学をやっている者として,担当者渡辺龍瑞氏に等しく報告書公刊の責任を感じない訳にはいかなかった。そんなある時,教え子でもあり今は仲間の川原由典が「一諸にやりましょう」といってくれた。報告書は自費で出すことにして二人は貯金することにした。渡辺氏に快諾を載いて51年1月17日,専称寺の本堂隅から湯坂の土器を搬出した。土器片は埃をかぶっていたが渡辺氏の注記の筆跡は鮮明であった。私も川原も〝本業〟があったから合い間をみてはボツボツ整理を始めた。箱の隅からネズミの白骨死体が5つも出てきてとび上ったが,作業は徐々に進んだ。整理のメドがついた昭和52年8月,槻沢遺跡の発掘調査現場で奇遇にも湯坂調査の担当だった益子孝治氏に出会った。私達の計画をきくと益子氏は,現況視察して刊行の予算化に努力しましょうと約束した。20年以上の前の調査に市が予算をつけるかどうか半信半疑でいたが,11月に益子氏から来年度に予算がついた旨電話があった。それは報告書と共に陳列ケースや遺物収納用整理箱をも含めていた。そこに市の文化財へ誠意溢れる姿勢をみると共に,青春の日をダブらせた「湯坂」への益子氏の熱い思い入れを感じたのであった。こうした市の配慮は私たちを勇気づけ張り切らせたが,その期待に応える報告書にしなければといっそう責任を感じたのだった。
 予算執行の53年度,私の勤務先の文化課には縄文中期を専攻する顔ぶれが増えた。八巻,初山,芹沢,桜岡らである。彼らの全面協力で実測図は続々と完成した。54年3月末の刊行をめざして休日返上,酒も控えて頑張った訳である。図面がやっと仕上った3月のある日,私達は集会を持って「湯坂の土器」を中心に栃木県の中期土器の編年について検討した。「じゃあ,この結論で編年の部分を書くぞ」と最後に私は彼らに念を押した。少し上気した顔と顔とが私に向けられ,強い視線を感じた。<少し恐いけどナ>と思った。しかし「湯坂の土器」にはこの日の検討が必要だった。「じゃあ,いいな」,もう1度云った。
 こうして,「湯坂」は大勢の人々に見守られ育まれて陽の目をみることになった。実測図を描きながら,「この頃,俺は生れていなかったよ」と芹沢。「俺だって小学生だよ」と川原。そんな若い世代にまで負担をかけているのかと心苦しい気もしたが,湯坂は栃木県全体の土器なのだと,私は胸をはっていた。渡辺龍瑞氏のお許しを得て本書を作成したが,果して氏や大田原市当局の期待に叶うものかどうか――脱稿のいまそんな不安が身をひたしている。                         (海老原郁雄)