1 那珂川

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那珂川は那須連峰朝日岳の北方を源流とし、深山(みやま)・板室(いたむろ)の両ダム人造湖を経て、湯川・木の俣川(きのまたがわ)・湯川を合わせ那須野ヶ原の北から八溝山地の西麓へと流れる、奈良川・三蔵川(さんぞうがわ)・黒川・余笹川を合わせ黒羽町地内を南流する。
 那珂川はさらに南流を続け茂木町で東に流れを変え峡谷を形成して、八溝山地を横断する。この間支流の箒川・武茂川・荒川・逆川を合流する。(「那珂川水系模式図」参照〈栃木県百科事典〉による)。

那珂川水系模式図

 茨城県に入り那珂台地と東茨城台地の間を南東に流れ、那珂湊市で鹿島灘(太平洋)に入る。那珂川の流路の長さは一一八・五km(県民手帳による。『栃木県百科事典』に一六五・二km、『栃木の水路』に一二三・六kmとある)流域面積は約三二七〇km2で、流域の約六二%は山地である。
 那珂川は曽て那須扇状地を形成した河川であるという。そして那須山地から多量の砂礫を運搬し、厚い礫層を堆積したが、その後、扇状地面を四〇~五〇メートル下刻し数段の段丘を発達させ、古いものから上位段丘・Ⅱ、下位段丘・Ⅱ・Ⅲと分類される。
 那珂川について『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』の那賀郡(なかのこおり)の条に
「自郡東北 挾粟河 而置駅家 本通粟河 謂河内駅家 今隨本名之 當其以南 泉州坂中 多流尤清 謂之曝井 縁泉所居 村落婦女 夏月會集 浣布曝乾(以下略)」(郡(こほり)より東北(うしとら)の方、粟河(あはかは)を挾(はさ)みて駅家(うまや)を置く。本、粟河を 〈めぐ〉らして、河内の駅家と謂ひき。今も本〈もと〉の隨〈まにま〉に名づく。)其(そこ)より南に當(あた)りて、泉(いずみ)、坂の中に出づ。多(さは)に流れて尤清(いときよ)く、曝井(さらしゐ)と謂ふ。泉(いづみ)に縁(よ)りて居(す)める村落(むら)の婦女(をみ)、夏の月に會集(つど)ひて布を浣(あら)ひ、曝(さら)し乾(ほ)せり。(以下〈しも〉は省く)」とある。

 このことからみると那珂川の古名は「粟河(あわかわ)」であることがわかる。これは上流に阿波郷(東茨城郡桂村の粟、阿波山が遺称地)がある故の古名であるとの考証がある。
 思うに粟(あわ)は湿地の意であり、稲の意であるというから、粟河は稲の川であると言えよう。
 また那珂川の名称の由来について『創垂可継(そうすいかけい)』(大関増業編)の『三社礼式』の「大宮(おおみや)社殿」の項に次の記事あり。「那須河ハ今の中川なり。那珂川とも云なり。元来那須国より流れて常陸国に出て海に入るを那須河と号し、常陸国にて流れ出る地を那須河郡といゝしを郡村の名二字に限るべきの制にて、中略にて那河(賀)郡と改るなり。又是より川を那珂川とも中川ともいへり」近世のころ、黒羽藩では中川と称していたことは古文書にも多くみられる。前述は増業の考証である。
 次の図は黒磯市(晩翠橋(ばんすいきょう)付近)―小川町(那珂川橋)の約三十一km間の「那珂川の流路縦断面図」である。

那珂川の流路縦断面図

 那珂川の上流部は河床の傾斜が急で、河水の浸食作用と流れが速く、砂礫を運搬する。
 奈良川・三蔵川・黒川を合わせた余笹川は川田・館下(寒井)地内で那珂川本流と合流する。(注、地元では、黒川と余笹川とを総称してか、黒川を代表的な呼称としている者が多い)
 八溝山地西縁と白河丘陵の間を深く刻み、蛇行しながら流出する余笹川は、開けた那須扇状地の東縁部と八溝山地との間を緩やかに流れる。中野内地内に長貫(ながぬき)と大戸という余笹川沿いの集落がある。集落名長貫は河谷が細長いことを示している。この辺りは先行性の流路をとり蛇行がみられる。また大戸はその入口にある集落で、それ/゛\地貌を表現している。また舟戸(那須町稲沢)は、舟運遡航の終点を意味している。
 この河川合流地一帯の稲沢・川田・寒井は古くみちのく関門の要衝地として、中世城館が置かれたところである。
 那珂川と余笹川の合流地付近「那須町稲沢」の地に黒川発電所が立地しているが、これは余笹川上流の黒川から引水して両者の落差を利用した水力発電所である。
 なお黒川は天保のころ、黒羽河岸問屋源兵衛が、白河、三春などの廻米輸送のため、自然条件を克服しながら、黒川舟運を営んだ河川である。
 黒羽町寒井の矢組・館下(たてした)辺りから大豆田高黒付近までの河川敷には、砂礫の堆積量が多くみられる。この付近は河床が高いためか流速が急に緩やかになり山合いから運ばれてきた砂礫を堆積するからである。
 特に大野室辺りは豪雨時の増水のため流路を屡屡変更したり、川筋と砂洲が数条も出来ることがある。大野室にある三島神社の社名「三島」と、金仏(かなぶつ)が光っていたという伝説地三河渕の「三河」の名等は、この河川敷の景観に由来するという。川田と大輪に曽て船の渡しがあったが、流速の緩やかな地点を選び設定していた。
 余笹川の合流地付近から那珂川は大きな輪を描き曲流している。このことは大輪の地名由来の一つとなっている。曲流は牛居渕(ごいぶち)付近と八塩(やしお)地内にもみられる。八塩の地名は岡沢・八塩沢・日暮沢など御亭山を刻む谷(たに)があることと、この辺りで那珂川が大きく曲流していることから名付けられたものと考えられる。一般に「八(や)」は「谷」の意に使われ、「塩」は川の曲流部を湾にみたてゝつけられる地名である。なお、湯坂川との合流地付近には、近世のころ黒羽河岸(かし)があり、水戸との舟運が開けていた。
 那珂川は鮎(アユ)・ハヤ等魚影の濃い清流で、鮎の友釣りの好漁地として釣りの愛好家を寄せている。河川敷が白瑪瑙(めのう)のような玉砂利で敷き詰められ、清音を立てゝ流れる早瀬、そのせゝらぎの中に釣り人が無心に糸を垂れる。それは禅の修業僧の境地なのであろうか。
 新小唄「水の黒羽」(作詩五来素川、作曲大村能章)の一節に
「水の黒羽 早瀬にさめて 月に寝られぬ
 窓に明け行く 花の城(黒羽城) チョイト花の城」

とある。(注、民謡の項参照)
 黒羽町地内の那珂川には瀬と渕が多く見られる。此処が鮎の友釣(つり)・ドブ釣(つり)の好漁場となっている。
 「河」は川の意で大河の称である。中国では黄河のことを指すが、一般に「珂」の意味は、宝石の一種白瑪瑙(めのう)のような玉を指すという。従って那珂川も白い瑪瑙を敷いた美しい河原のなかを清らかな水が流れる河として名付けられたものであろう。現在の那珂川の敷には砂礫の上に草が覆われていて往昔(むかし)の面影は少なくなった。これは深山ダム等による水量調節と護岸工事などで集中豪雨時における洪水の災厄を最小限に留めていることもその一因であろう。往時は大洪水が多く、崖崩れや堤防の決壊により田畑を流し、流木もあり、流域に大きな被害を与えたが、反面、水の引いた河川敷には砂礫の処女地が見られ、砂地に足跡をつけるのをとまどったほど清浄無垢そのものであった。
 那珂川の流路も八塩―北滝を過ぎ、片田―矢倉にかゝると、その景観を一変する。低位の段丘に灌木等が茂り、島状的に田畑が開け、河川敷が広く、川幅も太くなり、流れも急速に衰えて中流らしい景観をみせる。近世時矢倉には河岸(かし)が置かれ、河原に荷物積船がつながれていた。
 那珂川の河岸(かがん)に迫るように八溝山地の断層崖がみられる。(別葉「御亭山塊西縁の断層崖と那珂川の河岸低地」参照、同図のAは御亭山地、B―B′―B″は断層崖の線を示している。)この断層崖はかなり広範囲に連らなる。黒羽の上流からさらに小川・烏山方面へと延々と続くのである。

御亭山塊西縁の断層崖と那珂川の河岸低地