2 河岸段丘

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那珂川洪涵地に新規の段丘が発達し低地がみられる。これも浸食地形の典型的な特色の一つである。沖積地や段丘上には耕地が開け、葉煙草の卓越地帯をなし、集落も形成され、この洪涵地は那須地方の大動脈をなしている。河岸段丘の発達は那珂川の両岸(注、上流から下流に向って左側が左岸で、右側が右岸という。従って黒羽田町は左岸、黒羽向町は右岸にある)に多くみられる。

八溝山地西縁の断層崖と那珂川の河岸段丘


那珂川を臨む急崖上の丘陵上にある黒羽町山村開発センターと黒羽城址公園

 那珂川左岸の川田には大まかにみても第一次段丘、大輪には第一次と第二次の段丘(注、第一次段丘は形成過程が早期のものである)があり、牛居渕(第一次段丘、たゞし長谷田川のデルタ部は数次の段丘からなる)、黒羽田町・八塩にもみられる。なお大輪の段丘面は葉煙草の適作地で「河東物」と呼ばれる良質な産地をなしている。黒羽田町の市街地が載っている段丘は第一次の段丘で、同字の砂原(桜馬場跡がある)の地は第二次の段丘である。北滝・片田の段丘は広い面積の段丘面をもち、曽て条理制が施かれていたところで、御亭山地の沢水を利用し、水田が開け古代那須国の穀倉地帯をなしていた土地で片田の地名もこゝからきている。第一次段丘崖付近には銭室塚などの古墳がみられる。上山田付近には第一次・第二次段丘がみられる。河岸の低地で草が生えている部位はやがて第三次の段丘へと発達が予測される低湿地で、しばしば洪水に見舞われる土地である。
 別掲地図の段丘Ⅰ・Ⅱは形成順位を示すものでCⅠは第一次・CⅡは第二次の段丘を示すものである。なおDは曽て自然堤防であったころと考えられる。上山田の集落はこの上に載り、山田居館跡もこゝにある。対岸の湯津上村地内にも数次の段丘があり、下侍塚・上侍塚古墳などは第一次段丘の崖端に位置している。矢倉は山地の崖端が那珂川近く迫り、北滝・片田ほど段丘面は広くないが、第二次段丘形成過程の河岸の低湿地がみられる。
 那珂川右岸の段丘発達も見事なものがある。寒井・桧木沢・黒羽向町・大豆田等の地域がそれである。此処は那須扇状地を削って那珂川がこゝに流路をとったことにより河岸段丘を形成したと考えられているだけに、地下に厚い砂礫層を持っているのが特色である。
 矢組・大野室(寒井)の第一次段丘面を県道が立地し、崖端に矢組氏居館跡がある。第二次段丘は段丘面の面積が大きく、かつての河川敷は基盤整備が施された水田卓越地帯と変貌している。館下・鮎ヶ瀬(寒井)にも第一・二次の段丘の発達がみられる。
 三滝(みたき)(寒井)と二ツ(ふたつ)滝(桧木沢)は那須扇状地の扇面の開析谷が流出してきた水路が、那珂川の懸崖にかゝる所に位置している。なお奥沢近傍に上堂川の放水路がある。曽て下流に集中豪雨時の洪水の被害を与えてきたことによる対策の一つである。
 奥沢・石井沢(黒羽向町)は、河岸段丘上にある。礫層の多い段丘で、崖の下は湧水量が多い。石井沢の地名はこれに基づくものである。台地上の築地は地下水が深く、ながく乾燥原として放置されていたが、電力揚水により水田化し、浄水場なども設置されるようになった。
 古代この地方一帯は、低湿地であったので、東山道(とうさんどう)―鎌倉街道などの主幹道路は、開析谷を避けて台地や丘陵を縫うように、余瀬―蜂巣―上の台(桧木沢)―寒井と通過したのである。
 黒羽向町の町並(まちなみ)は那珂川の低位の右岸段丘上に立地しているが、城下町の形成は大関高増が余瀬白旗城から黒羽に移城してからで、天正十八年(一五八六)頃は荒宿(あらじゅく)と称したところである。曽て護岸工事が施されなかったころは、那珂川と大清水(おうしみず)を合せた堂川(注、地元では裏(うら)川とも称す)との合流地近傍は低湿地であったという。堂川の沿岸は開析谷が発達し、流速も急で、精米や製麺などの水車群がみられたところである。
 湯坂川(ゆさかがわ)は那珂川と不協和的に合流する。合流地付近は蛇行した河谷が峡谷状を呈している。恰も金鉱山の深い坑道のように見られ、そのためか地元では金掘(かねほり)川と称していた。砂金が採れたとする伝承もあるが、これは当らない。この湯坂川も余瀬・湯坂(大田原市)付近に遡ると開析谷がみられる。これ等の浸食地形は、地盤が徐々に隆起する過程において下流から上流へ、さらに下刻が浸食して形成されたものと思われる。ここに発電所・製材工場が立地した。

峡谷状の湯坂川(金掘川)


水力を利用した製材工場


製材工場付近の滝(排水)

 見返しの「湯坂川景観図」は「黒羽周辺景観図(小泉斐筆)」の「西郷の図(文政九年(一八二六))」の部分である。
 この図は湯坂川の浸食地形の景観を克明に表現している。