平安時代も十世紀になると律令制が崩れ、開墾や班田の私有化により勢力を増大した者は、中央権門勢家と結び、在地の実質的な支配をなし、国司に対立する様相をみせた。その頂点は坂東(ばんとう)の将門の乱であった。この時これを討った平貞盛、藤原秀郷などはその勢力を増大し、地方豪族として成長していった。
十一世紀になると下野各地に武士団が成立する。その中に宇都宮氏、足利氏、那須氏、塩谷氏などがあった。
黒羽の西郷の地はいわゆる那須の狩倉の地で、那須氏が宰領した土地である。すなわち資家がこの地に土着し、三輪郷を本拠として県北を支配したのである。
やがて那須氏は福原(ふくはら)(大田原市)と烏山(からすやま)(烏山町)に城砦を構築し、属将大関・大田原などを従え、下野地内の小山・宇都宮氏と拮抗しながら、南奥の結城氏、常陸の佐竹氏などと対決した。
那須地方は広漠たる荒蕪の地で、那須の篠原と称し、犬追物と遊猟などが催されたところで、実朝の歌、「武士の矢並つくろう………」(金槐集)で知られているいわゆる狩倉の地であった。