二 大関氏の台頭と近代への布石

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 大関氏の出自は常陸小栗庄とする説と、『創垂可継』「多治比系伝」に誌してあるように、高清が武蔵国児玉郡大関村に住し、大関氏を称したとする二つの説があるが、前者が定説とされている。丹治の姓に作為があるという。
 高清の父、実房は寿永年間(一一八二~八四)、畠山秀忠に属し宇治川の戦いで功名をあげた。
 高増は、那須氏の傘下から主導権を確立し、やがて宗家を越す実力を持ち、五月女坂、小田倉原の戦いなどで活躍し、近世大名へ転進する基礎を築いた。
 高増は、天正四年(一五七六)黒羽に城を移し、城下町も整備し、近世への対応を示した。さらに隠棲後も大御所として活躍し、清増の死後晴増と小田原攻めに参陣し、高増一万石、晴増三千石の本領安堵の御朱印を受け、中世以来の地に土着したまゝ近世大名となった。高増は慶長三年(一五九八)大往生を遂げ光厳寺に葬られたが、生前、大虫禅師に帰依した。