7 戊辰の役と黒羽藩

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国内諸情勢の緊迫した政治情勢のなかで、黒羽藩は密使を京師に遣わし、恭順を示しながら奥州同盟に対応した。
 増裕急死後藩論を統一し、五月女三左衛門を出兵隊長として白河口に出兵した。

急養子奉願候覚


下野黒羽藩軍装

 黒羽藩兵は旗宿―中野で戦い、諸軍とともに白坂を扼し、棚倉を屠り、河原田で戦い、ついで浅川―三春―本宮―二本松で力戦し、那須山の𡸴をおかし、三斗小屋で敵を走らせた。
 兵備と用兵の近代化をみていた黒羽藩は連戦累勝堅塁を砕き、遂に諸軍とともに会津攻城に参加し、百村、佐良土の残敵に対した。
 なお黒羽藩は棚倉及び近邑などを鎮撫し、民事に当り、明治二年二月には南部領の取締りを命ぜられ、北奥県と称し、同三年四月斗南藩に引き継がれるまで治めたのである。なお権知県事は村上一学であった。