増裕急死後藩論を統一し、五月女三左衛門を出兵隊長として白河口に出兵した。
急養子奉願候覚
下野黒羽藩軍装
黒羽藩兵は旗宿―中野で戦い、諸軍とともに白坂を扼し、棚倉を屠り、河原田で戦い、ついで浅川―三春―本宮―二本松で力戦し、那須山の𡸴をおかし、三斗小屋で敵を走らせた。
兵備と用兵の近代化をみていた黒羽藩は連戦累勝堅塁を砕き、遂に諸軍とともに会津攻城に参加し、百村、佐良土の残敵に対した。
なお黒羽藩は棚倉及び近邑などを鎮撫し、民事に当り、明治二年二月には南部領の取締りを命ぜられ、北奥県と称し、同三年四月斗南藩に引き継がれるまで治めたのである。なお権知県事は村上一学であった。