一 明治新政のころ

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 慶応四年(一八六八)七月天皇は東京西丸城に御着きになり、江戸城を東京城と改められた。ついで、明治と改元し、万機を親裁したのである。
 薩・長・土・肥四藩の版籍奉還の挙にならって、各大名が奉還し藩知事に任命された。俸禄は実質石高の十分の一が下賜された。
 黒羽藩は明治二年(一八六九)三月九日増勤が版籍奉還の建議をなし、六月二十二日お聞き届けられ、増勤は華族に列せられた。
 明治元年藩治職制が公布され、浄法寺頼母、益子右近、村上一学、五月女三左衛門などは一等執政職と参政職に就いた。
 明治二年十一月、三田称平は集議院の公議人となった。なお同年従前の職制(家老、物頭など)を廃し、新たな職制(大参事、権少参事など)に改められた。また禄制改正も実施された。
 黒羽藩は明治二年六月二十二日藩主増勤が藩知事となり、明治四年七月十四日、黒羽県となる。そこで増勤は黒羽県知事を命ぜられた。黒羽県は間もなく宇都宮県となり栃木県へと移行していった。
 明治元年(一八六八)六月、真岡知県事が置かれ、鍋島道太郎(貞幹)が任命された。同二年日光県が設けられた。
 明治四年六月区画改訂があり、明治五年大小区画を制定している。区画の変更はその後もおこなわれた。
 明治十一年(一八七八)、各大小区が廃され、郡役所が置かれ、翌年には戸長役場、さらに町村会などが置かれた。