黒羽は古くから利根川水系に属する那珂川上流の文化圏にあり、近世には黒羽藩一万八千石の城下町として、その伝統の重みのなかで明治以後も、八溝山地内に開けた山村と周辺の農山村を背景として、産業・経済の振興をみせ、東野地方の一小都市として発達をみせてきた。
那須野ケ原に東北本線が貫通されるや黒羽町の中心街である黒羽田町と向町とは大正七年(一九一八)東野鉄道を開通させ、東北本線西那須野駅と結び、八溝山地の谷口集落としての機能を一層発揮させていった。
特に豊かな森林資源をもつ黒羽町では、スギ・ヒノキ等の産地ばかりでなく、谷口の前田や田町と黒羽駅前等には製材工場が多く立地し、材木の町として取引も盛んで、金融機関も整備された。なお材木取引高の増減などにより、町全体の景気を刺激していった。
当時の製材工場の動力源は水力の利用が多くみられた。須賀川上組地内の押川上流、前田地内下高橋付近の松葉川、黒羽駅前付近の金堀川などにその例がみられる。
なお電力時代に入っても水力を利用している工場がみられた。また川西には発電所も設けられたことがある。
黒羽町市街地周辺は農村地帯で、主に米・麦・葉煙草などが生産され、桑が栽培され、養蚕業が盛んな時代もみられた。また茶・こんにゃくは須賀川地内の特産物として成長し、鮎の出荷もみた。また亀山石が採掘され、「かなめ焼」なども焼成されたことがある。
この地方は曽て馬産地帯で、馬のせり市があったが、現在は馬の姿を全く消してしまった。今は豚・牛などの飼養熱が高まり、酪農は田園地帯の一点景となった。
東野鉄道が小川まで延長した時期の黒羽駅前は、物資の集散と人馬の往来とで最も賑わった時代である。このころ貨物の運搬は荷積用馬車がその主体をなしていた。
しかし世は自動車時代を迎えた。大型荷積用自動車が普及し、自家用車が巷に氾濫した。従って那珂川の舟運が鎖され、東野鉄道の汽車もその姿を消した。黒羽にとって主要交通道路等の西遷は大きな痛手である。曽て地元を通過した東山道―鎌倉街道は廃れ、奥州街道―国道四号線―東北道。さらに東北本線、新幹線などが西へ西へと黒羽を離れた地方を通過することになった。加えて那珂川を寸断するように、数ケ所に架設増をみた橋梁、さらに自家用車の普及などと相俟って、黒羽田町と黒羽向町とはながく谷口集落として機能を発揮している。その様相がどのように変るのであろうか。予測は難しい。
産業構造や社会変化のなかで他市町村への通勤者が増加し、生活の広域化などが進み、人口の過疎化を招いたことがある。
黒羽町では、振興計画にもとずき、この解消に向っていることは力強い限りである。
長い歴史のなかで、戦後ほど農政に力を入れ、農業技術の進歩がみられ、今程農村の人々の生活が豊かになった時代はない。
農地解放以来、農地が確保され、自作農が創設された。農村基盤の整備がなされ圃場は整った。大型の農免道路が田園地帯に新設され、改修が進捗し、舗装がなされ、生活基盤の合理化が進んだ。一方農具の機械化、施設園芸、酪農などが導入され、集会場の設置などもみて、新しい農村づくりは軌道に乗っている。
第一次産業である農業の後継者の育成にも町は力を尽している。また福祉、厚生、医療などの施設も次第に整備され、農協、森林組合、商工会の活動も旺盛になった。
黒羽は教育を盛んにし、文化を尊重してきた町である。茶、華道など稽古事に励み、短歌や俳句を詠む層も多く、歌壇や俳句会なども結成され活動している。佐野規魚子・岸良雄・石川暮人等も輩出している。謡曲・仕舞などを嗜む者も多い。また郷土史家蓮実長なども活躍した。農民道を唱えた原田善吉もいた。
宗教家では植木義雄がいた。東山雲巌寺を護持し、社会教化の面にも大きな活躍をし、町民の精神的支柱となった。
画人には関谷雲崕、石川寒巌などがあり、政財界に活躍した人も多い。
学校教育に対し家庭教育をふくむ社会教育が振興し、公民館活動が盛んになった。各種の社会教育団体や趣味のグループ、サークル活動も活発化し、黒羽文化協会の誕生もみた。
今、黒羽町はあすの文化と豊かな暮しを育てるため、英知と活力を傾注し、新しい町づくりをめざしている。町の人々は町民憲章を高く掲げ、黒羽太鼓を力づよく奏でながら、人間性を培い、連帯の輪を固く結んで、大行進を続けようとしている。