一、概況

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 縄文時代とは、我が国において土器が製作・使用される約一万年前から、約二千三百年前(弥生文化の発生まで)の数千年間をさし、主たる生活用具として、土器の表面に縄目の紋様を施した縄文式土器を使用したことに、その名が由来する。
 主たる利器としては、打製石器・磨製石器が使われ、特に、木材加工具・土掘具としての石斧、狩猟具としての石鏃、その他、加工・調理具としての多種の石器が知られている。
 また、石器の他に、骨角器の使用も認められ、特に、銛・釣針など漁具として使用されたことと思われるが、本町のような貝塚のない地区においてはその出土を見ない。
 このような利器・用具からも明確なように、この時代の人びとは狩猟・漁撈・植物の採集の生活が主である。
 住居は、縄文時代の初頭においては、自然の洞穴や岩蔭を利用するが、本町にはそのような立地をなすものは発見されず、竪穴式住居を使用しているものと思われる。
 なお、縄文時代は、土器の型式分類・生活形態の変化などによって、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六時期に区分され、更に、土器型式により細分される。その編年表を次にかかげるが、本町が関東最北部に位置すため、東北南部の土器型式が移入・混在していることを考慮し、関東・東北南部の編年を示す。
 さて、黒羽町の縄文時代の遺跡であるが、東に八溝山地を有し、狩猟、植物採集の絶好の地となったであろうし、また、西に那珂川を臨み、漁撈に適し、本町の河岸段丘上、また台地上には数多くの遺跡が存在する。昭和五十年栃木県教育委員会刊行の『栃木県遺跡地図』の埋蔵文化財包蔵地所在地一覧によれば、縄文時代の遺跡数八十四を数え、そのすべてが集落跡となっている。しかし、これらの調査は、発掘調査等、学術調査の手を経ているものは極めて少なく、表面採集や偶然な機会によって得たものが多い。そこで、ここで黒羽町の縄文文化を論ずることは危険であり、不可能に近い。そこで、本節では、時代区分に従い、主たる遺跡を表面採集の結果と先学の研究成果を紹介し、略述するにとどめたい。
縄文式土器編年表
関東東北南部
草創期大谷寺Ⅰ日向
大谷寺Ⅱ一の沢Ⅰ
大谷寺Ⅲ一の沢Ⅱ
井草(大丸)一の沢Ⅲ
夏島
稲荷台
花輪台Ⅰ
早期花輪台Ⅱ
三戸
田戸下層
田戸上層
子母口大寺・常世
野島
鶴ケ島台
茅山下層素山
茅山上層
前期花積下層室浜
関山大木Ⅰ
(文蔵)大木2a
黒浜大木2b
諸磯a大木3
諸磯b大木4
諸磯c大木5
十三菩提大木6
中期五領ケ台・下小野大木7a
阿玉台Ⅰ・勝坂Ⅰ
阿玉台Ⅱ・勝坂Ⅱ大木7a
阿玉台Ⅲ・勝坂Ⅲ
加曽利EⅠ大木8a
加曽利EⅡ大木8b
加曽利EⅢ大木9
大木10
後期称名寺
堀之内Ⅰ
堀之内Ⅱ南境
加曽利BⅠ
加曽利BⅡ室ケ峰
加曽利BⅢ
曽谷
安行Ⅰ(新地)
安行Ⅱ金剛寺
晩期安行Ⅲa大洞B
安行Ⅲb大洞B―C
安行Ⅲc大洞C1
杉田Ⅱ大洞C2
千網大洞A
大洞A’
日本原美術Ⅰ縄文土器による。