縄文時代においては中期が最も盛行した時期であり、遺跡の面積・規模も大形化し、集落を呈する。また住居も竪穴式住居の円形が定着し、径六メートル前後で中央に石囲炉、または、土器を埋めこんだ炉が検出される。柱穴は太く深くなり五本柱が一般化し、住居壁も高くなり、その内側に周溝とよばれる溝を持つ例も多くなる。
また、住居に伴ったり、単独で群をなすように袋状土〓(壙)と呼ばれる、口部より底部の径の大きい土〓(壙)が数多く発掘されている。これは、黒羽高校、田代寛氏などの調査により、貯蔵庫であろうということが明確となってきた。
黒羽町において、中期の遺跡の発見は十数か所とあまり多くはないが、面積・規模はかなり大きくなっている。また発掘調査も、不動院裏遺跡、・長谷田遺跡・鉢木遺跡・浅香内遺跡と、開田・ゴルフ場の造成等により行われ、多くの資料を得ている。
次に、中期の各遺跡について、それぞれの調査成果にもとずき記す。