一、概況

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 弥生時代とは、水稲耕作を主とする農耕が行われ、青銅器や鉄器などの金属器の使用がはじまった、紀元前三・二百年より紀元後三百年くらいまでの時代をさす。
 水稲耕作・金属器の使用など弥生時代の文化は、ほとんど中国大陸に起源を持ち、朝鮮半島をへて北九州に伝ったものであり、弥生時代前期において西日本一帯に急速に広がっていった。しかし、中部地方以東の東日本への伝播はおくれる。それは、水稲の品種的問題、つまり寒冷地に耐えうる品種のなかったこと。また、東日本の自然環境が、自然採集の縄文以来の生活を可能にしていたことによるものであろう。つまり、西日本では弥生文化が発展する中で、東日本においては、縄文文化が継続することになっていった。
 しかし、食糧生産という安定した手段を持った弥生文化は、しだいに人口を増加し、更に、より耐寒性を持った水稲の検出により、東日本への拡大が行なわれ、弥生時代中期以降、東日本への伝播が行われる。栃木県においても、小規模な遺跡、出土土器がみられる。
 また、後期においても、その遺跡の規模は小さく、一集団が三~五軒であることが知られており、その立地を見ても、西日本に見られるごとく、河川周辺の低地や低湿地を臨む低い台地にあるものはほとんどなく、段丘や台地上、また丘陵中腹に存在するものなど、高地性が目立て、これらからも明瞭なように栃木県の弥生文化は、縄文時代的な自然採集を経済的基盤としたものであり、古墳時代に至り、水稲耕作・金属器の使用が定着するものと考えられる。
 黒羽町における弥生式土器の採集も少なく細片であり、その遺跡の規模も小さく不明な点が多いが、本県の弥生時代の遺跡の立地条件が、高地性なことを考えると、今後の発見に期待するところが大きい。
 なお、参考に編年表をかかげる。
弥生式土器編年表
地域北関東東部
時期栃木茨城
波及期茂呂川西(鹿沼)女方Ⅰ
上仙波(葛生)女方Ⅱ
中期野沢Ⅰ・出流原女方Ⅲ
野沢Ⅱ
中小代足洗Ⅰ―Ⅱ
岩崎
(+)
後期(+)磐船山I(東中根・長岡)
磐船山Ⅱ
二軒屋十王台
(+)(+)
(注)(+)は型式名が付されていないものと検討中の資料であるものが含まれる。(昭和48年11月30日現在)
   塙静夫「栃木県における弥生土器の編年試論」栃木県史研究7による。