五世紀頃の栃木県は群馬県とともに『毛野国(けぬのくに)』と呼ばれていたが、間もなく『渡良瀬川』をおよその境にして、『上毛野(かみつけぬ)』と『下毛野(しもつけぬ)』の二国にわかれた。そして『下毛野国』が『下野国(しもつけのくに)』となったのは、七世紀中ごろといわれている。
『下毛野国』は鬼怒川以西の姿川、思川などの流域と渡良瀬川流域がその中心地であった。下野国は下毛野氏が国造として支配していたが、この地域には、大きな前方後方墳が多く分布しているのが特色である。これに対し、下毛野国より早く開けていたとみられるのが、『那須国(なすのくに)』である。こちらは那珂川のやゝ上流の地に開け、前者とは異質の文化を築いてきたという。那須国の核心地は小川町・湯津上村付近で、黒羽町はその圏内にあったものとみられている。