一 大化前代の支配機構

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 古代の那須地方の社会のしくみや政治、人々の生活はどのようにおこなわれていたのだろうか、郷土資料は絶無に近い。本稿はこの頃のわが国と下野の古代のようすを概説し、一般的理解の資とすることにとゞめる。
 五、六世紀の大和朝廷は、氏族ならびに直接生産していたものの多くを氏姓(うじかばね)制度をもととする族制的身分秩序の内部にこれを位置づけ、国造(くにのみやつこ)・伴造(とものみやつこ)―部(べ)という政治支配が統一されたしくみであった。
 やがて、呪術(じゅじゅつ)宗教的なかたちによる権威のあらわれがみられる前期古墳的なはたらきと意義は次第に変化し社会のくみたてと文明の時代へと変っていった。
 四世紀後半から五世紀はじめにかけての応神・仁徳朝の時期になると国土平定が一応終わり、朝鮮への進出がはじめられた。この頃大和朝廷の力は、諸族長に望む独自の力として、王位の世襲制を確立し、その共同体内部に直轄地をつくっていった。
 そして五世紀に入り、臣・連・伴造らの力が増大し、畿内豪族をも味方とし、朝廷をつくり、これらに従うものとして、国造・県主などがつくられたという。
 しかし、五世紀末から六世紀はじめにかけ、国家組織の再編にあたり、大臣・大連らの諸豪族に対する官人として、帰化氏族とともに支配のしくみとしての部民制へと移っていった。そしてそのころ大和朝廷の力の周辺には、帰化人の技術や労働力が最大限に活かされていたという。
 当時大伴・物部氏の権力はたいへん増大していた。五世紀後半より勢力を得た豪族たちは、族長層と同族関係を結びながら、配下の共同体を集団的に部民化していった。
 東国の名代・子代の設定にあたっても、同じく国造一族などの在地族長をその首長に任命する例が多かった。
 五世紀末の雄略朝期から六世紀前半の継体朝期にかけて、百済の官司制が編入され、さらに国家組織は再編されていく。畿内の豪族からなる族長と帰化氏族を広範に官司に編入し、この権力を基礎として、新しい官制と行政、生産技術の発達等によって、私地・私民制を再編し、部民制をつくり出していった。
 六世紀における部民支配のかたちは、族長の共同体を分割し、成員を移動し、内部の『戸』をにぎり、新しい部をつくり、或はこわし、族長の共同体に対する支配権を大和朝廷に吸い上げることにあった。
 この点からみても『部民制』は、いわゆる社会のしくみでなく、統治のしくみであったことが明白であろう。こうして大和朝廷と諸豪族とによる分割領有の段階に移っていった。
 この分割領有のさまを大化元年(六四五)の詔に「国県の山海、林野、池田を割きて、己が財となし、争戦(あらそ)いて巳(や)まず」と述べている。
 この新しい部民支配のすゝみ方は、やがて大伴・物部氏らの族長による強力なる支配のし方を崩し、支配のしくみのなかの分裂と抗争、地方の国造勢力の反乱などを生んだ。このような中にあって蘇我氏が有力な官人的貴族として成長し、カバネ制が広く定められていった。(『大化前代の社会構造』〈平野邦雄〉の説による)
 このように五世紀になると大和朝廷の力は大きく増大し、六世紀には東国に対しても中央権力を浸透させていった。一方地方の長官も国家権力に服属するという進み方のなかで、『国造』の称号を与えられて、その地域の統治をまかされるようになった。