下毛野国と異なった文化を築きながら一国をなしていたのが『那須国』である。『国造本紀』によると那須国は『建沼河命(たけぬかわのみこと)』の孫である『大臣命(おおおみのみこと)』が国造として支配していたという。このお方は『古事記』には『建沼河別命(たけぬかわけのみこと)』とある。
那須国圏内には、『那須国造碑』(湯津上村)のほか、古墳群が多くみられる。なかでも那須八幡塚古墳(小川町)は、出土した『き鳳鏡』からみると四世紀後半のものとみられている。このほか『駒形大塚古墳』(小川町)や『上侍塚(かみさむらいつか)古墳』・『下侍塚(しもさむらいつか)古墳』(湯津上村)などの前方後方墳など、五世紀頃築かれた古墳が分布している。なお黒羽町内にも多くの古墳があったことが確認されているが、遺構のある代表的なものは、『銭室塚(ぜにむろづか)古墳』(北滝)・『大塚』(中野内)・『高黒古墳』(大豆田)等であるが、これらは六世紀後半に築造されたものと推定されている。
那須国が下毛野国と異った文化をもって発展した原因は、大和朝廷と深い結びつきがあったほかに、大陸から渡ってきた帰化人(きかじん)のはたらきがあったからとみられている。
この那須国は、大化の改新(六四五)後、『那須郡』となり『下野国』の一郡となった。
(補注)『毛野』の語義に諸説あるが『上野名跡考』に「毛は御食(みけ)で穀物豊饒な野の意味らしい」と誌してある。『職原(しょくげん)抄』の「毛とは田に有る毛という」がその原典であるという。『古事記』・『日本書紀』には『毛野国』という語はない。なお『国造本紀』(下毛野国造の条)に「難波(なにわ)の高津朝(仁徳天皇)の御世、もとの毛野国を分かちて上下となし、豊城命の四世奈良別(ならわけ)を初めて国造に定め賜う」とあって、毛野国という国名がみられる。
『二荒神社考』(雨宮義人)に、豊城入彦命の御父と生国紀伊国の御母のことに触れたあと、次のように述べている。
「紀ノ国、木の国、毛の国、木ノ川と毛ノ川、鬼怒川の相似をこゝで注意しておきましょう」と。