1 豊城入彦命

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『豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)』の出生については、『日本書紀・巻第五』(御間城入彦五十瓊殖天皇崇神(みまきいりびこいにゑのすめらみことすじん)天皇)の条に
 「御間城入彦命五十瓊天皇は、稚日本根子彦大日日(わかやまとねこひこおおひひ)天皇の第二子なり。母をば伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と曰(まう)す。物部氏の遠祖大綜麻杵(おほへそき)の女なり。天皇、年十九歳にして、立ちて皇太子と為り給う。識性聰敏(さか)し、幼くして雄略を好みたまふ。(中略)又妃紀伊国(きのみやきのくに)の荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙姫(あゆめまくはしひめ)、一に云わく大海宿禰(おおしあまのしゆくね)の女、八坂天某辺といふ。豊城入彦命・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生む。是年、太歳甲申。」とある。(岩波『古典全集』)
 『豊城入彦命』は『古事記』に『豊木入日子命』とある。また『豊鍬入姫命』は『豊鉏入日売命』とあり、『天照大神』を大和の笠縫邑に祭ったと伝えている。
 豊城入彦命の御父は、崇神天皇であり、御母は紀伊国の遠津年魚眼眼妙姫である。
 豊城入彦命を奉斎する神社は『二荒山神社考』によると栃木(三十社)・群馬(五十三社)・茨城(七社)・埼玉(十三社)・福島(十七社)の五県にわたり、概略百二十社を数えることができるという。
 さらに『二荒神社考』は、その分布に触れ、群馬県の式内社、勢多郡赤城神社名神大、豊城入彦命が国内五百四十九神を勧請したと伝える。西群馬郡元惣社村の惣社神社、豊城入彦命の陵墓と伝える惣社町植野の二子山古墳、奈良別王を祭神とする埼玉県秩父郡奈良村の奈良神社、豊城入彦命が建御雷経津両神の勲業を偲んだと伝える茨城県稲敷郡の阿弥神社を注目すべきであると研究の示唆を与え、次項に『彦狭島王』のことに触れるが、その御子は下毛野君奈良別と赤城神社の祭神となる赤麻邑の二人であるといわれている。
 国造は奉斎祭祀をその主要な任務としたが、御諸別系統の二荒神社と赤麻里系統の赤城神社とは、どれもその源を豊城入彦命に発し、その掌に当ったといわれている。
(参考)豊城入彦命の東国の六腹(むつのはら)の子孫は居住地を氏の名とすることについて、『続日本紀』桓武天皇の条に、「延暦十年(七九一)夏四月乙未(五日)、近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言、池原・上毛野二氏之先、出豊城入彦命、其入彦命子孫、東国六腹朝臣、各因居地姓命氏、斯乃古今所同、百王不易也、伏望、因居地名、蒙賜住吉朝臣、勅綱主兄弟二人、依請賜之、」とある。

 『二荒山神社』(宇都宮市)は、豊城入彦命・大物主命・事代主命を祭神とする社である。
 祭神の豊城入彦命は上毛野君、下毛野君の祖神である。降って仁徳天皇の時代、豊城命の四世の孫奈良別王が初めて下毛野国の国造に任ぜられたとき、御先祖の豊城命を、現在下の宮のある南丘の荒尾崎に鎮祭したのがそのはじめであり、その後現在の臼ヶ嶺の高台に遷座されたと伝えている。
 『延喜式神明帳』に「下野国河内郡一座大二荒山神社大名神」とある。昔から『明神さま』として崇敬が厚い。なお日光にも『二荒神社』がある。どちらも『二荒』(「フタアラ」・「フタラ」)の名称を冠しているが、明治初年までは、『宇都宮大明神』・『日光新宮大権現』と称してきたものである。