『創垂可継(そうすいかけい)』「封域郷村誌 巻四 詢旧」(大関増業編・文化十四年〈一八一七〉)は、両郷大塚の『王塚』のことにふれている。
「大塚村は王塚なり。景行天皇の五十五年豊城命の孫の彦狭嶋王をもって東山道十五国の都督拝し給いけれども、未だ任所に至らざる先に夢じ給うを、東国任所の土民等其任国に至り給わざれども其の仁徳を慕い薨じ給う大和国まで登り、ひそかに王の御屍を姿みとり帰り、上野国に葬りける。この時那須国民のうち、桜田の土民も其の御徳を慕って上野国の御衣と抜き散りたる御髪等を持帰り、高尾郷の山に塚を造り納め、御陵を王塚と称し、王の徳を慕い神と崇め祭り、今大宮(おおみや)(注、豊城入彦命をまつる中野内の温泉神社)十七、八丁の所なる大塚村にある大塚これなり。(以下略)」
この「彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道十五ヶ国の都督としたことと、東国の百姓が王の赴任前の死を悲しみ屍を上野国に葬むったこと、さらに増業が大塚古墳にこれを付会したことは『日本書紀』がその原点である。
『日本書紀 巻七 景行天皇』の条に
「五十五年の春二月(きさらぎ)の戊子(つちのえね)の朔壬辰(みづのえたつのひ)に、彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を以(も)て、東山道(やまのみち)の十五国(とをあまりいつつのくに)の都督(かみ)(注、都督は中国の官名。晋書、職官志に「魏文帝黄初三年、始置二都督諸州軍事一、或領二刺史一」とある。こゝでは彦狭島王が東国の支配を委任されたことの漢文的修辞か。東山道十五国については未詳。類似の称として、崇神記・景行記に東方十三道、孝徳記大化二年三月条に東方八道の称がある。)に拝(ま)けたまふ。是豊城命(これとよきのみこと)の孫(みま)なり。然して春日の穴咋邑(あなくひのむら)に到(いた)りて、病に臥(ふ)して薨(みまか)りぬ。是(こ)の時に、東国の百姓(おおみたから)、其(か)の王(みこ)の至らざることを悲びて、竊(ひそか)に王の尸(かばね)を盗みて、上野国(かみつけのくに)に葬(はふ)りまつる。」とある。
彦狭島王に因むこの説話は『創垂可継』(三社礼式)の項にも、ほゞ同じ内容で示されている。
ただし、この説文は次の通りである。「(前略)此時那須国全倉高尾等の村民も……王の御衣と秡散(ぬきちり)たる御髪御髷(まげ)を請けて那須の高尾郷に帰り、山によりて塚を造り、御衣と御毛等を納め、御陵の王塚と称し奉りて、王の徳を慕う意の信切(マヽ)なけばなり。是を神とし崇め祭りけるなり。今の大宮十七、八丁の所なり。大塚村に在る所の大塚是なり。今人是を稲荷明神と称し祭り奉る。毎歳九月二十九日也。上より祭免を下し奉る処なり。後に大宮合せ祭る所なり。」
(注)『全倉』は『那須十二郷』の一つとみられる。
黒羽藩主は神道を修め国学を学び、『烏伝神道大意』・『常世長鳴鳥』を著し、特に『日本書紀』の造詣が深く、黒羽領主蔵版『日本書紀』と『日本書紀見例』・『日本書紀文字錯乱考』等を刊行し、『書紀私語抄』等も著した。さらに『日本書紀』・『続日本紀』・『日本後紀』・『続日本後紀』・『文徳実録』・『三代実録』の六書より兵事に関する事項を抄出して『六史兵髄』を編さんしている。
従ってこの『彦狭島王』のことについても、地元の『書き上げ』と『調査』をもとに『日本書紀』と照合し、研究していたことが、うかがわれる。
『彦狭島王』のことについて旧事記、国造本紀、上毛野国造の項に「瑞籬朝(崇神天皇)皇子、豊城入彦命孫彦狭島命、初治二平東方十二国一為レ封」とある。