古代の那須国は、下野(栃木県)と常陸(茨城県)・南奥(福島県付近)の隣接地に立地している。大きくは関東と奥羽の漸移地帯にあり、文化面は措き、軍事上、政治上重要な地域にあった。関奥の門は『白河の関』である。東部には『勿来の関』などもあった。
高橋富雄は『古代国家と辺境』(岩波)の論考のなかで、蝦夷征伐のことにふれ、経営の段階を文化征服、国郡創置、武装植民、軍事征服、族長支配への交代などの角度から述べているが、大和朝廷にとって陸奥対策は重要なことであった。
『道奥国』の名は『日本書紀』巻第二十、天豊財重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 斉明天皇 の五年の条に
「……甲午(三月十七日)に、甘檮丘(うまかしのおか)の東の川上(かはら)に、須弥山(すみのやま)を造りて、陸奥(みちのく)と越(こし)との蝦夷(えみし)に饗(あへ)たまふ。(檮、此をば柯(かし)之と云ふ。川上、此をば箇播羅(かはら)と云ふ。) 是の月に、阿倍臣(おへのおみ)(名を闕(もら)せり。)を遣して、船師一百八十艘を率(ゐ)て、蝦夷国を討つ。」とある。
まもなく雅名をとって『陸奥国』に改められた。それは天武朝のころとみられている。養老二年(七一八)ころは福島県の浜通り、中通りを割きそれ/゛\石城(いわき)の国・石背(いわし)の国として独立させたということが『続日本紀』にある。このことは、この時期における国家権力と陸奥圏の消長を示している。
辺境の治定と神々の奉斉とは軍政上密接な関連をもっていたことは事実である。この時期には、かつて部族が個々に奉斎し、祭礼してまた部族信仰の上に、国家の統一の立場から、天地の神々を国家祭祀のうちに摂取していったのである。このことは『二荒神社考』(雨宮義人)の「大和朝廷と下野の接触」のなかで述べていることでも明らかである。
常・野・奥の三国に盤踞(ばんきょ)する『八溝山』(黄金の山ともいう)の山頂にある『八溝嶺神社』は、日本武尊が東征のとき創建したと伝えられ、大己貴命が祀られている。また山麓下野宮の『近津神社』も景行天皇から霊鏡一面と宝剣一振とが奉納されたという。また戦神(いくさがみ)として知られている鹿島神社は、常・野・奥の三州に五十三社も創建されているという。なお豊城命を祀った社の分布についてはさきにふれたところである。
このように、『みちのく』と、その境を接している地方には、その土地を鎮護する神々が多く鎮座している。中野内の温泉神社『大宮』もその一つである。
このようにいくさ人は神仏を崇敬し戦勝を祈願するとともに、民心の安定と世の平安も祈願したのである。
自然の厳しさと打ち続く戦乱のなかに、社(やしろ)を起し、仏を信ずることによって安らぎを得たのである。