『大宮伝』「三社礼式」(大関増業編)に、これらの経緯が精しく誌してある。高尾山大三輪の森に勧請した温泉神社の立社のことである。
「立社のその様は東方に向い前となし、西方を後となしけるなり。西は広々たる原野にて東夷・北狄を鎮護する意を表す所なり。
今の京都神祇官八神殿の左右に日本国中の神社を、西国の神社は東方に立て、西に向い西国を鎮護し、東国の神社は西方に立て東を向いて東国を鎮護するなり。総てこの如く相向って鎮守することなり。神代に広鉾をもって天下の国々を平伏したるの杖を奉ったことが日本記等に出て武威をもって給うこと察すべし。
この故に社地の四方をすべて『高尾』と称すといえども、社の向きにより社より前を高尾というなり。
この山高く麓に那珂河(川)あり。涯崖数十丈にて眺望に好き景勝なり。
夏は蒼海水上を望む如く、冬は白波潮来を臨む如し。或は嵐雪吹田、波浪に似て、運々たり。或は雲霧欝樹比満潮広々たり。
那須河は今の中川なり。那珂川ともいうなり。元来、那須国より、流れて常陸の国に出て海に入るを那須(珂)河と号し、常陸にて流れ出る地を那須河郡といえしを郡村の名二字に限るべきの制にて中略にて那河(珂)郡と改めるなり。またこれより川を那河(珂)川とも中川ともいえり。(高尾の森から)望むと真に大きな海原(うなばら)で、所々の村里は島の如く眼下に秋渡戸駅を臨み。またいう。新渡戸ともいえり。東鑑(吾妻鏡)の新渡戸駅村是なり。この時より寒井村は那珂川を渡る地なり。
今でも大宮の古社があった高尾の森(高館)に立つと眼下に東山道の関門であった土地のようすが展観できよう。白河丘陵と八溝山地の西に大那須野が開け、この辺りで、三蔵川・奈良川・黒川等を集めた余笹川が合流し、これを縫うようにして東山道の古道が北上している。
この東山道の関門を扼す、交通上、軍事上の要地の高尾山に社(やしろ)が起されたのである。『大宮伝』によると、崇神―景行朝の御代のことである。創建の意義が思いやられる。このような要衝地であったので、中世にも、川田―稲沢などが地方豪族の居館地となったのであろう。