(5)大宮遷宮

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大宮の由緒について、少し後世のことにわたるが参考のためここに略記しておく。
 『大宮伝』(三社礼式)によると、今いう大輪は高舘山の高尾山より今の桜田の大宮の辺、河原辺、久野又辺も前高尾という。これより山の方を一円に高尾と称しける。天正の頃までは古称が使われ、神社仏寺の棟梁の銘等前高尾とあり、今の大宮、神宮寺銘に前高尾温泉神宮寺とあり、那須越後守資世公の寄附する所なり。年号明徳四年(一三九四)なり。
 文治・建久(一一八五~九〇)の頃かや、今の大宮の地に遷し奉るなり。この頃兵火の為に廃すること久し。近村の老少その時々毎に窃かに小祠を立て祭りて神域を清めてきたが、後に那須家より神田を寄附されたが上・下那須の乱にまた廃された。
 御当家(大関氏)御先君様より御再興、今の大宮に遷し奉り、大宮の郷の向(むかい)の峠に遠鳥居を建て、これより社の方を後郷高尾という。後(のち)を大蔵(おおくら)の郷という。寛文(一六六一~七三)の頃より、日光御役人馬割刻等の日光より申し来る定(さだめ)の如く、鳥居は氏子等或は建立し、または廃しける。元禄(一六八八~一七〇四)の頃立ちけれども草莿の中故、程なく朽ちて名のみ鳥居坂といえしを近年前郷の氏子等建立しける。丸木作の故古風なり。
 古(いにしえ)、『全倉』と号せし事ありと見え、天慶(てんぎよう)三年庚子(九四〇)三月の願文の写しに『下野国那須郡三輪庄全倉郷高尾温神とあり。外にも『全倉』と書しけること見当ることなり。
 大輪高舘山の神社の跡は草芒たるなり。
 今の人伝えて『湯泉の平』という。往古神武という世の頃の立祠というもの、今のように家作り宮殿を造るにはあらず、たゞ神を祭るの土地を定め示し祭るの地を号するのみ。今の湯泉平というものと其の場等少し違いけれども古より伝えいうなり。