(6)御諸山

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『日本書紀』を研究された黒羽藩主大関増業は、『創垂可継』(三社礼式)のなかで、『豊城入彦命』と『三諸山』のことについて述べているが、これは『日本書紀』巻五、崇神天皇の四十八年の条に拠っている。こゝでは『紀の内容』を揚げて参考とする。
 「四十八年の春正月(むつき)の己卯の朔(ついたち)戊子(十日)に、天皇(すめらみこと)、豊城命(とよきのみこと)、活目尊(いくめのみこと)に勅して曰(のたま)はく、『汝等二(いましたりふたり)の子(みこ)、慈愛(うつくしび)共に斉(ひと)し。知らず、曷(いづれ)をか嗣(ひづき)とせむ。各夢(いめ)みるべし。朕(われ)夢を以て占(うら)へむ』とのたまふ。二(ふたり)の皇子(みこ)、是に、命(おおみこと)を被(うけたまは)りて、浄沐(わかはあみゆするあみ)して祈(の)みて寝たり。各夢を得(え)つ。会明(あけぼの)に、兄豊城の命、夢の辞(ことば)を以(も)て天皇に奏(まう)して曰(まう)さく、
 『自ら御諸山(みもろのやま)に登りて東に向きて、八廻撃刀(やたびたちかさ)す』とまうす。弟活目の尊、夢の辞を以て奏して言さく、『自ら御諸山の嶺(たけ)に登りて、縄を四方(よも)に絚(ほ)へて、粟を食(は)む雀を逐(や)る』とまうす。即ち天皇相夢(ゆめのみあはせ)して、この子に謂(かた)りて曰わく『兄(このかみ)は一方(ひとかた)に東に向けり。当(まさ)に東国(あづまのくに)を治(し)らむ。弟(おとも)は是悉(これあまね)く四方に臨めり。朕(わ)が位(たかみくら)に継げ』とのたまふ。
 四月(うづき)の戊申の朔丙寅(十九日)に、活目尊を立てて、皇太皇(ひつぎのみこ)としたまふ。豊城命を以て東(あづまのくに)を治めしむ。是れ上毛野君、下毛野君の始祖(はじめのおや)なり。」

『創垂可継』「三社礼式」大関増業編

 増業は『三社礼式』のなかで、「豊城入彦命が東国(あづまのくに)を治めた」ことを『日本書記』の文意で右記のように触れたあと、さらに次のように述べている。
 「皇子は那須国に至り此の山(高尾の森)の傍に『大国主命』を祭り『三諸山』という由縁のありけるによりて、この山に登り給いて、御神を祭り給う後辺を行宮と定め給う。
 山谷にすむ所の邪気神を降伏させた。
(注)今に当山(高尾の森)の東方なる深山に八溝山の麓に『邪気神村』といえるなり。これ往古は邪気の住みかくれし所という。今人『地気志村』(茨城県大子町蛇穴)ともかく。古く遺りし村名なりけるぞ久し。
 郊原に隠るる所の姦気鬼を治平せんと、神祇の霊に頼み、天皇の威を借りてこれを示し、威をもち、徳をもってこれを懐(なつ)くる。

 後、東国、委(ことごと)くに治(おさ)まり人民仁徳に化し、この皇子豊城入彦命の御行宮ましませし三諸山の大己貴神を今も祭り奉るなり。皇子三諸山に登り槍と刀とをば採り給う。神教により当国にてはこの山を第一の希瑞霊場となし給うに、果して勲功ありて治平するによって祭るところなり。
(注)大己貴命の御心の幸魂奇魂の大功を皇子も慕い給うにより三諸山を夢に見給うこと神祇の教い給うところなり。右は日本紀の文意なり。また御諸山の大三輪大神のこと史に詳かなり。神名帳にいわく、大和国城上郡大神大物主神社 三諸山の宮などあり、また郊原の邪気鬼は西原の中に強盗の隠れ居住するをいう。今いう熊窪村狸久保村等所々にあるべし。

 三諸山を興し給う景行天皇の五十五年豊城命の孫彦狭島をもって東山十五国の都督を拝し給わった。」
 増業の稿はこのあと、彦狭島王の薨去と桜田の民などがその徳を偲び、塚を築きその衣髪を葬った話へと続け、さらに筆をすゝめて、「景行天皇の五十六年丙寅秋八月、その御子の三諸別の王を東山道都督となし給う。依って天皇の命を承って父の業跡を続きなし、住国に下り来りて治めること早く、善政を得るところなり。時に蝦夷騒動す。その徒すでに早く八溝の深谷にひそむと聞き、王自ら兵を挙げて来り。先に三諸山に登り敬神の後こゝに屯を定め給う。
 祖神豊城命の勲功をなし給う吉例によって霊験を祈り向うところ悉く平伏しける。
 蝦夷の馬を生け捕り帰り、不服は悉く誅し治まりけるなり。よって報賽のために大宮を営み尊敬奉りし事なり。
 この王の魂も父君を祭りし王塚の祠に合わせまつるともいえり。または塚の東に祠を立て祭るともいえり。これ今の六谷稲荷祠というも未詳。大宮に合わせ祭ること社記にあり給う。考記なり。」と誌している。