右大宮の号を蒙りあることなりしを、今世人惣社号を称え、更に寛政年中惣社号となって郡惣社と号をまた蒙るなり。その根元は天皇親(みずか)ら神籬を立て八神祭り、天神・地祇を大内裏宮中に会(合)わせ祭り給う、神祇宮これなり。是を大宮と号するなり。内裏を大宮と称し奉り、これより御世の移りゆくまゝに風化し、国々、国造、国司、国寺等、また親王の任国にて、神験ある神社にその国中の諸神を合わせ祭る。これを大宮と号し、天神地祇よりその国の万神を祭る。この国の一宮にて大宮と号し、都(すべ)て第一の宮という義にて大宮と称えるなり。
(補)近江国大〓山山王二十一社にても第一の宮を大宮と号し、これより二宮、三宮と号すなり。また武蔵国一の宮を大宮と号し、今は地名のようになり、大宮宿と称し、駅馬となりけれども、氷川神社にて延喜式に詳らかなり。
大宮の号、何れの世からいうを知らざるなり。また駿州一の宮を大宮と号しけれども『式』に浅間神社とあり、不二(富士)山の神霊を祭るといえども、絶頂よりは、十六、七里を隔たりし麓にて、南の山になり、これより登るゝなり。これを大宮というは地名のように心得る者多けれども、さにあらず。こゝに不二山の神霊を祭り来たり、今も怠りなく、大宮にて、幕府より御朱印、神田を御寄附ありて、大社なり。こゝに大宮司も神主も、祢宜もあり、八神を祭り、大宮司、行事は秘中の秘にて、その大宮家名相続の者なくては伝なき、極秘にて、その国々の大宮にのみ伝わることなり。(中略)
幸にわが大宮(中野内、温泉神社)に伝の残りけること神恵と思い奉ることなり。その家も西にて今の野間の村住にて、茶臼嶽の神ならびに湯処の神霊ならびに中川の神、原野神、沼水、田神を今のぬか塚の前にて、祭ることなり。またはその年を撰(えら)び茶臼岳等の高山の霊所に清めてなしぬ。大宮行事は常には大宮にて行事するの職なりしが、東国大乱にて万民悉く恐れ退く。かゝる時に大宮の当主幼少なりければ、母と共に今の大宮の地に陰(隠)れけるに、果たして乱軍のために放火せられぬ。後始まりしにつき、野間の地に帰らず流浪しけるに大宮司屋敷は百姓の住居になりければなり。この屋敷に住せし百姓、わけをしらず、苗字と心得て大宮司何蔵と名のるもの今に二、三家あり(下略)
幸にわが大宮(中野内、温泉神社)に伝の残りけること神恵と思い奉ることなり。その家も西にて今の野間の村住にて、茶臼嶽の神ならびに湯処の神霊ならびに中川の神、原野神、沼水、田神を今のぬか塚の前にて、祭ることなり。またはその年を撰(えら)び茶臼岳等の高山の霊所に清めてなしぬ。大宮行事は常には大宮にて行事するの職なりしが、東国大乱にて万民悉く恐れ退く。かゝる時に大宮の当主幼少なりければ、母と共に今の大宮の地に陰(隠)れけるに、果たして乱軍のために放火せられぬ。後始まりしにつき、野間の地に帰らず流浪しけるに大宮司屋敷は百姓の住居になりければなり。この屋敷に住せし百姓、わけをしらず、苗字と心得て大宮司何蔵と名のるもの今に二、三家あり(下略)
往古は、那須国造にて一国なりける時は、一の宮なる故か、または延喜式の後に大宮の化風なりしか、伝来の行事古(いにしえ)よりのことなり。大宮号伝わりけること万人の知るところなり。
温泉大宮と号すとも温泉湧きける所より六、七里隔たりけれども温泉大宮なり、別神霊こゝに座す。往古は多く遠く隔たる山口に祭ることがみられた。
(補)当国下野にて宇津(都)宮と二荒山の神霊を祭ると雖も山より九里隔たり、絶頂の霊所よりは十二、三里も隔たりけるなり。
二荒山は今の日光山なり。延喜式に河内郡二荒山の神社とあり。神名大にて国の一の宮なり。
今いう日光二荒山は都賀郡にてケの世まで入りもあり、神社は河内郡と『式』にあれば、これにても宇都宮二荒神なること知るべし。
宇津宮のこと古書等にありといえども今の人あやまりて宇津宮は別神にて今の日光山こそ二荒神社という人多し。古(いにしえ)を知らぬ人か、尤ものことなり。目前に山神を祭るに目前の山にある社なりければ左と思うべし。今こそ山ひらけぬれば左もあるべけれども古人未だ山開けるざる時遠く出現の地に初めて祭りけることを知らぬなり。
下野国往古は上野国と一国にて上下わかれず、毛野国という。この時那須も一国にて別なりしころ、崇神天皇の皇子豊城入彦命東国に入り来たり、東方十五国の都督を拝し給いて、毛野国に座(おわ)します。上下わかれざる時なりしに国平化し開けて、悉く治めけるなり。
毛野国を木野国ということにて、木樹よく繁りたること余国に増さりける。故に木の国と名付け給う。然れども先に南国に木の国あり、同名たる故に、壱通故に毛野国という。これを上下二つに分けて、上毛野・下毛野という。
上毛野国、夏木多く紅葉する故に赤木山という。
下毛野国は冬木の多き故に、時として黒く見える故に黒木山という。これを黒毛山とも意通にて書き、またこれを黒髪山とも改め書すなり。
赤黒と豊城命の分け給う故に二分の山神と称えるべきを二荒山神と改め、一年に二度荒れる故に名づくるの説は非なり。
この皇子の開き始め給うことにて今の日光山は深山にて今だひらけず。今の宇津宮までも冬木繁りし、麓の山口なりければ山霊の今の宇津宮の地に出現す。これ二荒山神の初めて現じ給う処、自然太郎明神と俗に称し伝えるなり。
古も万民年の吉凶を祈る。果して験あり軍事に験あり。天皇より位階勲功位ありける御神なり。後に豊城入彦命を合わせ祭り神徳を尊び奉るなり。
これにて山の霊所に遠く、始め祭るの社の絶えぬを神霊の座しますとするなり。この皇子、諸木多く村開き給う故に木の霊神を祭りて、野木の神社という。尤も上下に別れてより上州にも野木神社を祭りけれども、同名故に野木前の神社と称す。スキサキの神という。
これより世に征夷大将軍下る毎に右の神社、二荒神に征誅のことを祈るに果たして験ありしという。(祭地の標縄、幣帛のこと略す)
宇津宮は、珍宮とも顕宮とも書し、宮を尊敬して珍宮とも大宮ともいえるなり。
今いう日光二荒山は都賀郡にてケの世まで入りもあり、神社は河内郡と『式』にあれば、これにても宇都宮二荒神なること知るべし。
宇津宮のこと古書等にありといえども今の人あやまりて宇津宮は別神にて今の日光山こそ二荒神社という人多し。古(いにしえ)を知らぬ人か、尤ものことなり。目前に山神を祭るに目前の山にある社なりければ左と思うべし。今こそ山ひらけぬれば左もあるべけれども古人未だ山開けるざる時遠く出現の地に初めて祭りけることを知らぬなり。
下野国往古は上野国と一国にて上下わかれず、毛野国という。この時那須も一国にて別なりしころ、崇神天皇の皇子豊城入彦命東国に入り来たり、東方十五国の都督を拝し給いて、毛野国に座(おわ)します。上下わかれざる時なりしに国平化し開けて、悉く治めけるなり。
毛野国を木野国ということにて、木樹よく繁りたること余国に増さりける。故に木の国と名付け給う。然れども先に南国に木の国あり、同名たる故に、壱通故に毛野国という。これを上下二つに分けて、上毛野・下毛野という。
上毛野国、夏木多く紅葉する故に赤木山という。
下毛野国は冬木の多き故に、時として黒く見える故に黒木山という。これを黒毛山とも意通にて書き、またこれを黒髪山とも改め書すなり。
赤黒と豊城命の分け給う故に二分の山神と称えるべきを二荒山神と改め、一年に二度荒れる故に名づくるの説は非なり。
この皇子の開き始め給うことにて今の日光山は深山にて今だひらけず。今の宇津宮までも冬木繁りし、麓の山口なりければ山霊の今の宇津宮の地に出現す。これ二荒山神の初めて現じ給う処、自然太郎明神と俗に称し伝えるなり。
古も万民年の吉凶を祈る。果して験あり軍事に験あり。天皇より位階勲功位ありける御神なり。後に豊城入彦命を合わせ祭り神徳を尊び奉るなり。
これにて山の霊所に遠く、始め祭るの社の絶えぬを神霊の座しますとするなり。この皇子、諸木多く村開き給う故に木の霊神を祭りて、野木の神社という。尤も上下に別れてより上州にも野木神社を祭りけれども、同名故に野木前の神社と称す。スキサキの神という。
これより世に征夷大将軍下る毎に右の神社、二荒神に征誅のことを祈るに果たして験ありしという。(祭地の標縄、幣帛のこと略す)
宇津宮は、珍宮とも顕宮とも書し、宮を尊敬して珍宮とも大宮ともいえるなり。
高尾郷大宮も温泉の地に六、七里も隔つと雖ども諸方多く証あることなり。大宮ということも尊敬して広前大宮というが如し。大三輪を横なまりて言ともいえり。また大陶を大宮ともいえり。然れども社伝・社記・神宝などに温泉大宮とある。広前大前の意、尊敬の意、大宮号、古蒙りしことと考える。願いは後の人、御老を請い奉る者なり。
(注)那須三古社
○温泉神社(那須町湯本)
『三代実録』に「貞観(じようかん)五年(八六三)十月七日丙寅、授下野国従五位上勲五等温泉神、従四位下、同十一年二十八日丙辰、授従四位下勲五等温泉神従四位上」とある。
○三和神社(小川町三輪)
『続日本後紀』に「承和(じようわ)五年(八三八)九月辛酉、下野国那須郡三和神、預二之官社一」と見え、『三代実録』に「元慶(がんぎよう)四年(八八〇)八月二十九日授ク二従五位下三和神ニ正五位ヲ一。仁和(にんな)元年(八八五)二月十日、授ク二従五位上三和神ニ従四位下一」とある。
○健武山神社(馬頭町健武)
『続後記』に「承知二年二月戊戌、下野国武茂神、奉レ授二従五位下ヲ一、此神坐下採二沙金一之山上」とある。
『三代実録』に「貞観(じようかん)五年(八六三)十月七日丙寅、授下野国従五位上勲五等温泉神、従四位下、同十一年二十八日丙辰、授従四位下勲五等温泉神従四位上」とある。
○三和神社(小川町三輪)
『続日本後紀』に「承和(じようわ)五年(八三八)九月辛酉、下野国那須郡三和神、預二之官社一」と見え、『三代実録』に「元慶(がんぎよう)四年(八八〇)八月二十九日授ク二従五位下三和神ニ正五位ヲ一。仁和(にんな)元年(八八五)二月十日、授ク二従五位上三和神ニ従四位下一」とある。
○健武山神社(馬頭町健武)
『続後記』に「承知二年二月戊戌、下野国武茂神、奉レ授二従五位下ヲ一、此神坐下採二沙金一之山上」とある。