中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(かまたり)は、皇極四年(六四五)六月入鹿を倒した。中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となり、新政を推進した。
大化二年(六四六)正月、改新の詔が出された。その大要は次の通りである。
第一条は、朝廷の子代(こしろ)の民や屯倉、諸豪族の部曲(かきべ)の民や田荘(たどころ)など、いわゆる私地私民を廃止し、その代償として高級者には食封(じきふ)を、一般の官人たちには布や帛(きぬ)を与えることを定めている。
第二条は、都を造り、地方に国司・郡司(ぐんじ)を置き、関所・防人(さきもり)・駅制を定めること、京には坊令(ぼうれい)を置くこと、畿内の範囲を定めること、また郡の大小を規定し、郡には郡司を置き、それには国造をあてること、などを述べている。
第三条は、戸籍・計帳・班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)を定めること、各地に五〇戸を一里とする里制をしき、里長を置くこと、田地には町段歩の制を適用することを述べ、田租の額を定めている。
第四条は、調・馬・兵器・仕丁(しちょう)・庸・采女(うねめ)など、人民の各種の負担を規定したものである。ここに見える調庸は、後の大宝令制が個人単位で納めることになっているのに対し、戸単位で徴収する形をとっている点が異なるが、五十戸に一人の割で仕丁を出させて役所の雑役に従事させること、郡司の一家から美女を采女として奉り、宮廷の用にあてることなどは大宝令制と全く同様である。(『栃木県史』による。)
これによって、公地公民の原則、地方行政組織、公民の把握と田地・人民の各種負担などを定めている。