(三) 東国と国司

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 『日本書紀』によると、大化元年八月に東国に国司が置かれた。
 坂東八ヶ国は、相模・武蔵・上総・(上野・下野(毛野))常陸・陸奥を指すという。
 『常陸風土記』に古老の言として「昔は相模国の足柄山(あしがらやま)から東の諸県をすべて我姫国(あづまのくに)と言い、常陸という称はなく、ただ新治(にいはり)・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂国と称し、それぞれ造(みやつこ)や別(わけ)を遺わして治めさせていた。後に難波長柄豊前(なにわのながらのとよさき)の大宮(おおみや)に君臨された天皇、すなわち孝徳天皇の時に、高向臣(たかむこのおみ)などを遣わして坂より東の国を総領させたが、その時に我姫(あづま)の道は分れて八国となり、常陸国もその一つである。」とある。また『令解解』(賦役令)によると『遠国十六』は、上総・常陸・武蔵・下総・上野・下野・陸奥・佐渡・周防・石見・土佐・越後・安芸・長門・隠岐・竺柴国これなりとある。
 下野国は、東山道の奥の一国で、三関より東を東国と呼ぶ説がある。足柄峠の東を坂東と呼び、坂東と陸奥国とは、菊多関(勿来関)、白河関の二つで境を接していた。こゝから北を『道の奥(みちのく)』と呼んでいた。
 なお『日本書紀』をみると、東国は坂東だけでなく美濃や伊勢国あたりから東の方を指していた。
 国司の任務は、おおむね次の通りであった。
 一、戸籍をつくり、田地を調査すること。
 二、任地で訴を裁いたり、賄(まかない)をとってはならない。
 三、長官(九人)次官(七人)とする。
 四、伝来の所領申し立ての調査。
五、兵庫(注)を造って、国内の刀・甲(よろい)・弓矢などの兵器を収納しておくこと、ただし蝦夷に近い辺境の地では、兵器の数を数えた上で、もとの持主に持たせておくこと。

 これは『日本書紀』(孝徳天皇)の条に出ているが、兵庫を造り国郡内の武器を収めさせたことについて「起造兵庫、収聚国郡刀甲弓矢、辺国近与蝦夷境処者」と誌してある。
(注)黒羽居館の地と兵庫山 黒羽居館の地は往古那須国造の居館の旧跡なり。中古に至って黒羽城と唱え武将篭り敵軍を防ぐ城とす。城郭の四面に縄張連綿として四神相応の地なり。東は前田川流れて前田村、河原村に田沢あり青竜の地なり。南田町、大豆田村にて朱雀の地なり。西は石井沢、奥沢の広野をうけて白虎の地なり。北は高館山を背にして樹木繁茂し玄武の地なり。此東北にあたって大塩村に兵庫山と云う名の山あり。此の国造の時、兵賦軍器を納め置きし所なり。わが日本国の国造の居館たりし所には必ず其の近き所に兵庫又は武庫などと云う地名あり皆この故なり

(『創垂可継』「封域郷村誌」による)

 五世紀から六世紀の間に、東国には広く直轄領が設定され、その管理は、多くの各地の国造などが当っていたと考えられる。
 天智天皇(中大兄皇子)は六百七十一年崩じたが大化改新以来二十五年にわたって改新政治の中心をなした。
 壬申(じんしん)の乱後大海人皇子(おおあまのおうじ)は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即位して天智天皇となり、律令制に基づく中央集権国家の建設に強力に推進していった。
(追補)下野国司
 『日本書紀』天武五年の条に「下野国司奏す、所部(しよぶ)の百姓、凶年に遇ひ、飢ゑて子を売らんと欲すと。而(しか)れども朝聴(みかどゆる)さず」とある。これが文献上に下野国司があらわれる最初である。