一 碑とその銘文

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 『碑』は、古代那須国の歴史的・文化的な側面を考察する上に貴重な遺産である。文武天皇四年(七〇〇)、庚子正月二日になくなった『那須直韋提(あたいいで)』の徳を偲んで、その子意斯麻呂(いしまろ)らが建立したものである。
 『碑文』は、花崗岩の一面を平滑にし、八行十九字詰百五十二字からなる碑である。書体は、中国の六朝(りくちょう)風の格調高いもので、金石文として、代表的なものである。
 那須国造碑は、草叢の中から、延宝四年(一六七六)、磐城(いわき)の僧円順の通報と、馬頭の庄官大金重貞の確認、さらに、徳川光圀等によって、世に現われたものである。

那須国造碑(笠石神社)

 その後貞享四年(一六八七)西復堂建築計画が進み、元禄五年(一六九二)二月頃、碑文の調査と相まって、上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査がなされた。これは本県考古学上、画期的なことであった。
 碑は、もともと現在の碑堂の立つ土盛りの場所にあったものとみられている。そしてこの高塚が那須国造直韋提の墓であろうとする説もある。何れにしても碑は現位置かその近傍にあったものとみられている。
 碑の寸法は『碑之高四尺よこ壱尺六寸』とある。
 (注) 『県史』引用、参考資料参照のこと

参考資料 国造碑堂正面の略図