那須国直韋提は、永昌元年(六八九)飛鳥浄御原大宮より評督(こおりのかみ)(郡司)に任命された。
庚子に当る文武天皇四年正月二日辰のとき、死亡された。
そこで、意斯麻呂(おしまろ)らは碑を立て偲(しの)び銘した。
なくなった公は、広氏の尊胤であり、国家の棟梁であった。一世の中に再甦に恵まれた。
子であるわれらは、骨を砕き髄をぬぐうような苦しい目にあっても、前恩に報いなければならない。
われわれは、御恩に報いるため、驕(おご)ることなく、罵(ののし)り合うこともなく孝養を尽す子として父の教えを守りつづけましょう。
国造はよく人民を教化することができて、その名声は長く語り伝えられ、思慕の念はさらに固くなるでしょう。