(2)全文の大意

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唐の則天武后の時の年号である永昌元年四月(我が持統天皇三年)、飛鳥浄御原の大宮(持統天皇の朝)より、那須国造で、追大壱の位階を有する、那須(氏)の直(あたへ)(上古の姓(かばね)で、君(きみ)の次ぎ県主(あがたぬし)の上)韋提に、那須郡の大領(評督)を命ぜられた。(大化の改新により、那須国が郡に改められたからである)。そして国造は庚子の年の正月二日(文武天皇の四年に当る)、午前八時に死去(物故)された。依って国造の子弟たる意斯麿を始めとして、国造の恩顧を蒙った新羅の帰化人等が、墓碑を建てて故人の徳を石に刻みつける。
 仰ぎ思ひ見れば、亡(な)き人(殞公)は、豊城入彦命の後裔たる広来津(ひろきつ)氏(広氏)の子孫で、国家の重任に堪へる材器のある人であった。(国家棟梁)我れ等は非常な恩顧に預り、一世の中二度と主君の照臨を蒙り、(帰化人が此地に来て再び主君を戴くからいふ)一命が蘇生(再甦)することを得たやうな厚い御恩恵に浴した。此の海よりも深く山よりも高き御恩は、骨を砕いて骨髄を現わす底の労苦をなすとも、如何でか国造生前の恩恵に報いることが出来ようぞ。
 実に国造の恩徳は、斯の如く甚大なれば、其の子弟の之に事へること、曽子の家に父兄に背くやうな驕傲なる子が無いやうに、又孔子(仲尼)の一門に師友を悪口するものが無いようであった。後に遺(のこ)された国造の子弟も、論語に「三年無父之道孝矣」とある教訓に合(かな)って、能く父の志を継ぎて徳政を施し、我れ等帰化人を旧(もと)の如く憐んで下さる。
 さて国造は忠(銘夏ニ堯ノ心) 烈(澄神照乾) 孝(六月童子) 養(意香ハ助坤)を以て、よく人民を教化し大いに民心を振作した。此の「銘夏堯心」より此句までは隠語の文で、意味を合せて文字となるのである(合言喩字)。
 かく教化が行はれた故、国造の名声は、管子に「無翼而飛者声也」とある通り、長く後世に伝はるべく、又治下人民の故人を思慕する真情は、同書に「無根而固者(マルハ)は情也」とある通り、長く固結して、永久に之を忘れることはなかろう。
 というのである。全文僅々百五十二字、然もよく深長の意味を籠めて作った所は、帰化人としても余程文学に秀でたものでなければ出来ない。以下章を改めて各句毎に詳解し、以て諸君子の叱正を仰ぐこととする。(原文のまゝ)(『那須国造碑考』蓮実長による)