那須国造直韋提は追大壱の位階を持ち、評督を賜わっている。
(注)『評』『郡』論争は、歴史考古上の政治文化形態論の問題となっているが、この文字使用は、文武帝五年三月(大宝元年=七〇一)以後の大宝律令施行以前と確認されている。なお『都督』(すべまとめ、ひきいる)は、長官のことである。これは中国漢代来の官位職名にもとづくものである。
韋提は、那須国の統治者である『那須国造』であったが、その以前は、那須の『郡司』であり、『評督』であった。
(注)『国造本紀』に「那須国造纒向日代御代建河命尊孫大臣命定賜国造」とあるが、疑わしい。大臣命は阿倍氏の一族であり、『碑文』の『広氏尊胤』は広木津(ひろきつ)公=赤麻呂のことで、豊城命三世の孫である。
那須国造は豊城命を祖とするものと考えられる。
韋提を帰化人とし、かつ意斯麻呂も帰化人とする説や、意斯麻呂を韋提の属領とする説、あるいはその子息の兄弟とする説などがあるが、これは造字が渡来人の人名にふさわしいことからくるのかも知れない。
『韋提』の『韋』は、水利・治水に関係深い名で、『井堰』のことをいう。これは古代那須国の開発を象徴した語である。これと係りがあるのであろうか。長谷田沢をせきとめた人工用水池『駒込池』が思いやられてならない。
意斯麻呂は韋提の子息とおもわれる。政治・産業・文化・開拓や創造に恰好の倭名を冠したお方とみられている。